私にとっての読売新聞とは⑪

2017年08月07日 06:00

「組織の読売、個人の朝日」との定評については触れた。一般的な傾向を言っているだけで、すべての記者について当てはまるわけではない。朝日はツイッターなどでの情報発信が認められ、個人プレーを重んじる文化があるが、読売は「出る杭は打たれる」体質が強い。これは業界の大半が受け入れる評価だろう。朝日記者に多く見られる自己中心的で、横柄な態度には辟易とさせられる。そういう場合、私は面と向かって言うことにしているが、それは別問題なのでここでは触れない。

組織を守るリスク管理において、読売は圧倒的な強みを発揮することからもそれはうかがえる。他のメディアでは、例えば、共同通信は人事部長によるセクハラ問題の処理を誤り、社長が辞任に追い込まれ、朝日は誤報の対応で混乱し、社長が謝罪・辞任会見を開いた。読売は社内不祥事に際し、トップを守るために組織がフル回転するため、トカゲのしっぽ切りで終わる。情報統制も行き届き、不祥事が外部に漏れにくい。社内で上司や会社を批判することも、「密告者がいるから気を付けた方がいい」と神経を尖らさなければならないほどだ。

ある週刊誌記者から聞いた話だが、政治家を囲むメディア関係者の勉強会で、参加者のメーリングリストを作ることになった。その中に読売の記者がいて、週刊誌記者に対し、「社内で誤解されるので、週刊誌のアドレスは登録しないでほしい」と求めた。つまり、メールが検閲され、週刊誌記者と関係を持っていることが発覚するのは都合が悪い、ということなのだ。その週刊誌記者は「それだったら自分が別のアドレスを使えばいいではないか」と言い返したという。これが読売の空気である。

組織が強くなると個人は弱くなる。概して小心翼々とした、責任回避に走る、小粒の人間ができあがる。強い者に阿諛追従するか、われ関せずと、自分の居場所だけを守り続ける二通りしかない。慣れてしまえば居心地はよいが、代償として自由は放棄される。それが独裁体質を助長する。

こうした組織はしばしば、スケープ・ゴートを作って、組織の団結を強化する手法をとる。捻じ曲げられた事実だけに目を奪われ、それを事件、問題として見る目を忘れている。問題として見るとは、限定された時間、空間の枠を取り払い、歴史の中において考えるということだ。スケープ・ゴートを排斥するロジックも手法も、組織強化の目的に沿ったものでしかなく、道徳や公共性を欠いている。だから社会の幅広い共感と支持は得られない。

読売記者の多くは、組織のくびきから外れた途端、社内の不満を言い始める。中国駐在中はしばしば、本社からの出張者が話す愚痴に付き合わされた。ここ10年ぐらいではないか、社内の空気がどんどんよどみ、記者がますます萎縮していく様子を、外から感じた。だから外からうかがえる「鉄の団結」も、威嚇と恐怖によって保たれているに過ぎない。自由な個人が自律的にかかわっている空間はない。

カントの『啓蒙とは何か』には理性の私的使用と公的使用という対立概念が使われている。会社組織でその規則に従い、忠実に職務を遂行する義務を持つのが私的理性だ。一方で、制約を受けない自由な理性をもった個人として、公共の言論空間に働きかける公的理性がある。その両者がバランスをとならければ、私的領域が公的領域を侵し始める。個人は、他人の導きなくして個性を発揮できない未成年状態から脱することはできない。歴史は停滞し、後退するしかない。

別の言い方をすれば、日々の慣習に流され、功利のみを追求すればどうなるか。疑問もなく凡庸を受け入れる空気に支配され、特定の価値観に追従し、思考能力を失っていく。善悪を思考し、判断することを放棄した精神の奴隷状態は、全体主義につながる主要な要因の一つとなる。もしそれが、世界最大発行部数の新聞社で起きているとすれば、もはや一新聞社の問題ではなく、社会全体の危機だと言わざるを得ない。

(続)


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年8月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。

アゴラの最新ニュース情報を、いいねしてチェックしよう!
加藤 隆則
汕頭大学新聞学院教授、元読売新聞中国総局長

アクセスランキング

  • 24時間
  • 週間
  • 月間

過去の記事

ページの先頭に戻る↑