法律学は、しょせん「解釈学」に過ぎない

荘司 雅彦

私は、大学2年生の終わり頃まで、法律の学習というのは学者の書いた基本書を理解することだと思っていました。六法というのは英語学習の時の辞書程度のものだという認識しかありませんでした。今から考えると汗顔ものです。

しかしながら、当時の私のような考え方をしている人が意外に多いことを知り、改めて「法律学」を検討すべく本稿を書くことにしました。

法律学というものは、国会で定められた法律を”いかに解釈するか”がほとんどなのです。もちろん、「この法律はおかしいので改正すべきだ」という意見が出ることもありますが、これは「しょせん立法論に過ぎない」として片付けられます。

具体例を挙げてみましょう。
殺人罪を規定した刑法199条の条文には「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」と規定されています。殺人の「故意」が必要であることは大前提です。

Aという人に恨みを抱いた人物がAを殺そうとして猟銃を撃ったところ、間違って愛するBに当ってBが死亡してしまいました。Bを撃った犯人は殺人罪で処罰されるでしょうか?
犯人としては、愛するBを殺すつもりは毛頭なくBを死に至らしめたことを心の底から後悔しています。

このような場合、通説判例は、「およそ人」を殺そうとして結果的に「人」を殺してしまったのだから殺人罪が成立すると説きます。

AとかBとか具体的な人物で区別するのではなく、抽象的な「人」というものを観念するのです。条文にも「”人を”殺した者」と規定されているからです。ですから、間違って犬に当って犬を殺してしまった場合には殺人罪の既遂罪では処罰されません。当然のことながら、このような解釈には反対説もあります。

このように、刑法199条の条文「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」を、具体的な事例においていかに解釈するのかが法律学であり、学者の書いた基本書は解釈の違いを示して自らの解釈を示すに過ぎません。ですから、超少数無力説と揶揄される学説もあるのです。

憲法学者も例外ではありません。既に定められた憲法の条文を解釈することが主たる任務であり、新たな条文を加えたり逆に条文の削除を提案するのは「しょせん立法論にすぎない」のです。
ちなみに、憲法9条は以下のように規定されています。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この条文をどのように解釈するかが「法律学」「憲法学」の本来の任務です。

憲法学者の多くは、「この条文からすれば個別的自衛権までがせいぜいで、集団的自衛権を認めるのは無理だな〜」と解釈しています。先程の例の、犬を殺してしまった時に殺人罪の既遂罪の成立を認めるのはムリだというのと、同じレベルの話なのです。

詳細は述べませんが、私自身、集団的自衛権は現行憲法の解釈としてはムリだと考えています。
しかし、現行憲法制定当時には予想し得なかったほど日本という国の存在が世界的に大きくなった今、現実問題として集団的自衛権の行使は必要だと考えています。「今現に存在する条文の解釈としてはムリだけど、現実問題としては必要だ。だから憲法を改正する必要がある」という立場です。

解釈学と立法論を区別することなく、日本の憲法学者は危機意識の欠如した世間知らずだと揶揄する向きがあるようですが、それは大きな誤りです。多くの憲法学者は、「今の条文の解釈としてはムリだ」と主張しているに過ぎないのですから。憲法改正も反対だと主張するのであれば、”危機意識が欠如している”という批判もあり得るでしょう。

最近、解釈学というチマチマとした領域の議論と、立法論という創造的な領域の議論とを混同した意見が散見されます。これはとても残念なことで、議論が噛み合わない一因となっています。
ガッチリと噛み合った骨太の議論の一助になればと思い、一法律屋として書いた次第です。

説得の戦略 交渉心理学入門 (ディスカヴァー携書)
荘司 雅彦
ディスカヴァー・トゥエンティワン
2017-06-22

編集部より:このブログは弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2017年8月19日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。