グローバル時代のコモン・センス(常識)とは

2017年08月26日 06:00

トマス・ペインの『コモン・センス(常識)』(1776年)は、植民者イギリスの君主制を脱し、個人の独立と自由を確立することを「常識」として訴え、アメリカ独立の機運を作った。200年余りを経た今日、トランプ政権の誕生は、常識がかつての力を失い、人々がその反動として非常識に惹かれ始めている図を描き出した。消費社会が生んだナルシシズムが極限に達し、砂のような民が強大な専制君主の出現を待望する危険な兆候である。一国だけの問題ではない。

常識が色あせ、ややもすればドグマとさえ誤解されかねない。うかつに常識という言葉を発することのできない時代を迎えているのだ。

常識が通用しなくなったのは、社会の中で共有される価値観が崩れ始めたためだ。信仰が揺らぎ、人々のよるべき柱が失われたためだ。公共の領域が、私的な利益に侵食されたためだ。常識の土台を失った人間の欲望は、道徳の拘束からも解放され、ひたすら名利をむさぼる怪物となった。

非常識だと排除されてきたものが、いつの間にか正当な装いをして、堂々と闊歩している。原理原則のない二枚舌、ダブルスタンダードが平気でまかり通っている。その結果、偽善者が町中にあふれ出した。

メディアの発達は、独裁権力に独占されていた言語、知識、情報を開放し、自由と民主主義を促した。だが大衆が等しく知識と情報を共有できたわけではない。公共心を持った一部のエリートが発言をし、議論をし、世論をリードした。それらのエリートも権力を握るにしたがって既得権益集団と化し、大衆は置いてけぼりにされた。

自由と権利の意識、権威や虚偽に動じない独立した精神、幅広い知識に支えられた批判的思考、こうした模範的な市民を育てるための教育が、マスメディアに服従し、凡庸な仕事を得るためのトレーニング・センターと化した。教育は人間を育てる牧場から、権益の配分を競う荒野へと変わったのだ。

工業化は人々を長年にわたって縛り続けた地縁血縁の桎梏から解放したが、みなは個人の自由を謳歌する間もなく、社会の中で分散し、浮遊した。いとも簡単に大量生産プロセスの部品となることを受け入れ、そして無限の欲望をもった消費マシーンと化した。メディアはマスと化し、既得権益集団と手を結んだ。社会との関係を断たれた砂粒のような個人は、マスメディアの命じるまま、自らを愛するしかなくなる。こうしてナルシシズムの時代が訪れた。

インターネットが登場する前の1970年代、クリストファー・ラッシュは『ナルシシズムの時代(The Culture of Narcissism)』の中で、すでに情報過多と伝統への無関心が、文化の荒廃を招いている悪弊を指摘した。

「ナルシシズム社会-ナルシシズム的な特徴を強め、またそれをエンカレッジする社会-では、過去など文化の上ではなんの価値もないときめつけられてしまう。これは、実はイデオロギーの貧困を反映しているのである。このイデオロギーの貧困のために、ナルシシストたちは現実をつかむことができず、現実を支配することもあきらめてしまっている」(石川弘義訳)

常識不在の社会で、ひたすら他者の目によって自分の存在を確かめようとしても、どこまでも定まらない焦点は、人をますます不安に陥れる。どれだけ過剰な消費をしても、手に入るのは架空の物語でしかなく、心が満たされることはない。常識は過去のたくわえを折り重ねた宝庫だ。常識を棄ててしまったあと、現在に自分の足で踏む地が見つかるわけもなく、明日の図を描くことなどできない。

インターネットはメディアの概念を破壊した。情報や知識は、石油や石炭のような有限性や有価性に縛られず、自由にネット空間を飛び交う。送り手と受け手の境界はあいまいになり、あたかも理想の民主主義が実現したかのようだ。グローバルは地球を一つに結び、世界市民の誕生を約束するかのようだ。だがここから世界共通の常識が生まれると考えるのは、楽観的に過ぎる。

湯水のようにあふれ出てくる過剰な情報は、自由にわれわれの中に飛び込んできて、脳を直接刺激し、新たな欲望や衝動をかきたてる。疲労によって思考はマヒし、情感が脳を支配する。ナルシシズムはますます深化し、不安がたどり着いた先に、自由ではなく依存が待ち構えている。過去がたちどころに上書きされていく社会に常識は記憶されない。

希少性の中に価値が生まれるという経済学の論理は破綻し、過剰の中に価値が埋没し、常識が流出する。人間が手に負えなくなった過剰を、今度は人工知能やロボットが担わされている。ナルシシズムは人間の分身としてのロボットに向けられるのだろうか。ロボットのために葬式を挙げ、今度はロボットが人のために読経をする。バラバラになった無縁社会をつなぐものがロボットだとしたら、いずれ常識は機械に取って代わられることだろう。

人工知能の研究はすなわち人間の脳の働きを知り、人間とはなにかを探求することにつながる。楽観主義者が言うように、人工知能が逆に、人間とは何か、知性とは何か、教育とは何か、を問い直すきっかけを与えてくれるのだろうか。科学は懐疑精神によって立つが、自らを疑うことはできない。当たり前のことを常識という。その常識が科学を疑わなければ、人間は自ら作り出したものに支配されるしかない。


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年8月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。

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加藤 隆則
汕頭大学新聞学院教授、元読売新聞中国総局長

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