「史上最低最悪の解散」とは歴史を知らない妄言

2017年09月21日 10:00

「“史上最低最悪の解散”河野外相、野田総務相は賛成するのか」と郷原信郎さんが書かれた投稿がアゴラでも話題になっていた。法律論なら検事さんがプロだが、歴史なら私も負けないと思うから放っておけない。早速読んでみた。

郷原さんは、

「もし、安倍首相が解散を強行すれば、“憲政史上最低・最悪の解散”を行った首相として歴史に名を残すことになるだろう」

と仰っているが、「憲政史上最悪の解散」であるというなら過去の解散をすべてチェックする必要があるだろう。

しかし、内容は、そういう比較はされていないので、いささか拍子抜けした。解散は、内閣不信任案可決に対抗する場合に限られるとか、そうでないとしても、重大な政治的課題が新たに生じた場合や、基本政策を根本的に変更する場合に限られべきと言っても、戦後70年、そういう、運用はされていなかったのだから、今回だけはそうあるべきだといっても無理がある。

それでは、歴史家として「憲政史上最低最悪の解散」は何かを検討してみると、昭和12年(1937年)、林銑十郎内閣による解散だというのが普通の考え方だ。

なにしろ非常時だというので、各政党も協力して予算が成立したのだが、予算が通過するや翌日に口実もなしに解散に打って出て「食い逃げ解散」と批判されたのである。

PHP文庫から出ている「歴代総理の通信簿」という拙著の要旨を本稿の末尾にかかげておくからご覧頂きたい。

政友会など既成政党のふがいなさを打ち破るために近衛らによって新党が結成されることを見込んでのことだともされるが、そういう動きは具体化されず、林も「改革派」と見られる新人へのてこ入れを行うわけでもなかったので、議会の勢力分野はほとんど変わることなく、なんのための解散か分からないままになったし、新議会では政党勢力からの退陣要求を受け、政権を投げ出した。

大義名分がない解散というのは、こういうものをいうのだ。よって、今回の解散を「史上最悪」の解散とはいえなだろう。

もちろん、任期の半分にもなっていない時期に解散するのは、よほどのことがないと支持されないだろうが、あとは、外交などの日程やほかの選挙との関連でほどよい時期の解散が慣習化しており、任期満了解散でなければならないという政界の常識はない。

解散の大義名分はこれから安倍首相が示すものだが、北朝鮮情勢への対応ひとつにしても与野党で食い違っており、首相が国民の結束を示したいというなら十分な理由だ。

森友・加計問題については、もし、与党が「その問題にこだわるべきでない」ということを争点にして選挙をして勝つとか、野党が「森友・加計を理由に政権交代すべきだ」と主張して負けたら、いちおう、国民としては納得したことになるし、争点にどちらもしなかかったら、選挙が終わってから議論を続ければいいというだけだ。与党から争点化することはないだろうから、争点化して勝てねば問題を終わりにするかどうかは野党次第だ。

(参考)林銑十郎 1876年2月23日~1943年2月4日(享年66歳)首相在任:1937年2月2日~6月4日(123日)

石川県生まれ。陸軍大学卒。

とんでもない総理の筆頭である。皇道派に推されて総理になりながら、組閣のときから統制派になり、予算を通してから解散するハチャメチャぶりだった。

加賀藩士の子として金沢に生まれ、東京府立城北尋常中学(府立四中)に学んでいたが、日清戦争の開戦を見て陸軍士官学校に入学し、陸軍大学校を卒業した。ドイツ留学、イギリス駐在などを経たあと、必ずしもエリート・コースを歩いたわけでないが、皇道派の真崎甚三郎などの引きで陸軍大学校の校長になったあたりから運が向き始める。

近衛師団長から朝鮮軍司令官に転じたところで満州事変が起き、関東軍参謀石原莞爾の要請を受けて、参謀本部の意向を無視して鴨緑江を越えて介入し、「越境将軍」と世論にもてはやされた。世論は、「超法規的決断」をいつの時代にももてはやすものだ。

この「名声」を背景に斎藤実、岡田啓介内閣で陸軍大臣を務めた。「後入斎」とあだ名されるほど決断が遅かったというが、無口で人の話をよく聞くように見え、大胆な提案や助言に意外なほど乗る一面があり、それが扱いやすいという期待を抱かせたようだ。皇道派の代表である石原莞爾が「林大将なら猫にも虎にもなる。自由自在にすることができる」といったほどだ。

ところがその性格が、彼を押し上げた皇道派の軍人たちをも裏切ることになる。

「なにもせんじゅうろう内閣」などと揶揄されたが、変わり身の大胆さは、首相に就任してからも存分に発揮された。組閣を石原莞爾らの助言に沿って進めていたのを、陸軍全体の支持が得られないと見るや180度転換して、陸軍首脳部、平沼騏一郎、近衛文麿などに近い人物を積極的に起用してバランス人事に乗り換えた。

予算の成立に腐心したが、通過するや翌日に口実もなしに解散に打って出て「食い逃げ解散」と批判された。これは、政友会など既成政党のふがいなさを打ち破るために近衛らによって新党が結成されることを見込んでのことだともされる。しかし、そういう動きは具体化されず、林も「改革派」と見られる新人へのてこ入れを行うわけでもなかった。結果、議会の勢力分野はほとんど変わることなく、なんのための解散か分からないままになったし、新議会では政党勢力からの退陣要求を受け、政権を投げ出した。

風変わりな点は「祭政一致」を掲げて西園寺公望らを呆れさせたことくらいであった。

戦争の終わる前の昭和18年(1943年)に死去したので、戦犯にはならずに済んだ。

歴代総理の通信簿 (PHP文庫)
八幡和郎
PHP研究所
2013-11-05
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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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