学校教育で社会は救えない 「反脆弱性」の視点から

2017年09月24日 11:30

もちろん、教育はしないでよいということではない。ただ、教育を改善すれば、社会問題が解決するという幻想を払拭したいと思っている。社会の閉塞感の原因のスケープゴートを教育にしてはならない。

ナシーム・ニコラス・タレブは、「反脆弱性 」(池田信夫氏高橋大樹氏も大きく取りあげているが、私は教育の面から取り上げたい)で、

現代性の最悪の問題点は、ある人から別のある人へと脆さや反脆さが移転するという悪辣な現象にある。一方が利益を得ると、もう一方が(知らず知らずのうちに)損をこうむる。こういう状況は昔から存在していたが、今日では特に激しい。現代性がうまくかくしているからだ。(下P222)

と言っている。

これは企業、とくに大きな企業に勤めている人間なら、だれでも薄々気づいていることだと思う。自分の立場は決して実力ではない、たまたま20歳かそこらで勤めることができた企業の恩恵にあずかっているだけだ、と。これに形骸化した終身雇用という雇用の流動性のなさに恐怖心を煽られ、下りるに下りられないゲームとなっている。

お役所的な大企業は、「大雇用主」になって国家を掌握すれば、中小企業を犠牲にして利益を搾取することができる。だから、60万人もの従業員を雇う企業は、市民の健康を破壊しても責任は問われず、暗黙の救済保護で利益を得ることができるのだ。一方、美容師や靴屋のような職人にはそんな保護などない。(下P264)

日本でも同じことが起きていて、多くの人にとっては、大学に行くのはとにかく「お役所的な大企業」のイス取りゲームの参加権を得るためだろう(一部の尊敬すべきリスク・テイカ―を除く)。
では、仮に教育で学力が底上げされることができたとする(現実には学校の「お役所的対応」でむずかしいことだが)。けれども、この社会構造上、「お役所的な大企業」の労働者の定員は一定なので、社会に変化は起きないだろう。社会が以下の言葉のようにならなければ、教育は無力だ。

私たちは“失敗”したかどうかにかかわらず、企業家やリスク・テイカーをピラミッドの頂点に置くべきだ。そして、他人をリスクにさらすくせに自分ではリスクを負わない学問化好きの学者、おしゃべり屋、政治屋はピラミッドの底辺に置くべきだ。(下P232)

そう。日本は失敗したリスク・テイカ―が尊敬されない社会になってしまった。それを学校教育で穴埋めしようとしても、できるわけがない。

多くの人々がアメリカの学校教育の水準の低さを嘆いている(たとえば数学の成績だ)。だが、そういう人たちは、新しいものが次々とアメリカで生まれ、世界各国でまねられていることを忘れている。でも、それは大学のおかげじゃない。大学は、明らかに実際よりも自分の手柄をずっと大きく見せている。(上P283)

アメリカの実力は、つまりリスク・テイクとオプション性の使い方にある。アメリカは、合理的に試行錯誤する驚くべき能力を持っている。失敗し、やり直し、また失敗しても、そんなに恥をかくことはない。

それと比べて、日本はどうだろう。失敗は恥になる。だから、人々は金融や原子力のリスクを絨毯の下に隠そうとする。小さな利益のために、ダイナマイトの上に座ろうとする。(上P283)

そして最後にこう付け加えることも忘れていない。

朽ちた英雄、つまり「高貴なる敗北」に敬意を払ってきた昔の日本とは、奇妙なくらい対照的だ。(上P283)

歴史を見渡してみても、リスクを冒さない人々がこれほど幅を利かせている時代はない。それが日本の停滞の原因であって、学校教育でそれをひっくりかえすのは無理な相談だ。

そもそもタレブは、個人にとって教育は無駄だとは言っていないが、その効果は国家全体には当てはまらないと言っている。

中沢 良平(元小学校教諭)

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