「死」をタブー視してはならない

人は生きている。同時に、等しく「死」に向かって突っ走っている。この明確な掟のもと、喧騒な日々を、時には喜びを感じ、時には涙を流しながら生きている。「死」は、「生」と共にわれわれの人生の同伴者だ。

▲ウィ―ンの世田谷公園の秋風景(2017年10月15日、ウィ―ンで撮影)

▲ウィ―ンの世田谷公園の秋風景(2017年10月15日、ウィ―ンで撮影)

ローマ法王フランシスコは18日、サンピエトロ広場の一般謁見の場で、数千人の信者を前に、「死をタブー扱いにしてはならない」と語りかけた。

法王は、「現代社会では死はタブー視され、その秘密について、もはや誰も語らなくなってきた」と指摘し、「死はわれわれの人生を審判する。われわれが誇りに思ってきたことや怒りや憎悪の行為が空虚だったことを示す機会となる。われわれは人々を十分に愛さなかったこと、人生で大切なことを無視してきたことを苦痛の思いで回想する。もちろん、その逆も考えられる。いい種をまき、良き実を刈り取ることにもなる」と説明した。

そのうえで、「イエスは死の秘密をわれわれに啓蒙した。彼は友ラザロの死に涙を流し、彼を再び生かした。同じように、会堂司の娘でも同じことが起きた。会堂司に対し、恐れず、信じなさいと語ると、娘は蘇り、歩き出した」という新約聖書のイエスの言葉を引用する。

それでは、「死」について考えてみよう。新約聖書の「死」には2通りの概念があることに気がつく。「ルカによる福音書」によれば、父親の葬式のために自分の家へ帰ろうとする弟子に、イエスは「死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」と語る。前者の死人は肉体の寿命が尽きた人間であり、文字通り人間の五感が機能しなくなった人間だが、後者は肉体の死とは関係なく、葬式に集まった人々を指している。イエスは別の個所で神の愛の下に生きる人間は「たとえ死んでも生きる」(「ヨハネによる福音書」)と主張している。

イエスは生前、少なくとも2人の死人を蘇らせた。ラザロであり、会堂司の娘だ。2人とも肉体的には死んでいたが、家族の神への信仰ゆえに生き返ったというのだ。この場合、肉的な蘇生だろう。
イエス自身も十字架に亡くなり、3日後、復活した。イエスの復活に対し、肉体復活か、それとも霊的復活かでキリスト教会では見解が分かれている。新約聖書の記述を読む限り、イエスは時空を超えて行動しているから、イエスの復活は霊的なものと受け取るべきだろう。「死」に2通りの概念があるように、「復活」にも2通りの現象があると受け取れるわけだ。

人は永遠に行きたいと願う。病があれば、それを治癒し、健康体で生き続けたいと願う。現在の再生医学はその願いを追及している。イエスの復活の恩恵を受け霊的復活を体験する信者たちも、やはり肉的復活への願望を消去することはできないのが、偽りのない人間の姿かもしれない。

肉的な死は避けられないだろう。人間の肉体も自然の鉱物、要素で構成されている。時が来れば消滅する。それでは人間の精神、愛してきた人への想いなどは肉体の死と共に消滅するだろうか。この問いへの答えは科学の発展をもうしばらく待たなければならないだろう。いずれにしても、霊的な世界の解明が待たれる。

興味深い点は、人間の人生で重要な愛、空気などは不思議と不可視的だということだ。全ての人間が共有できるように不可視的な存在となっている。愛が可視的だったら、独裁者か大資産家が買い占める恐れが出てくる。

幼虫が蛹となって成熟し、脱皮して蝶となって飛び立つように、人間も肉体という衣を脱いで、時空を自由に飛び交うことができる世界に入るのではないか。その意味から、「死」は終わりではなく、新しい世界への出発となる。悲しい葬式ではなく、新しい出発を祝う歓送会となるわけだ。

今年も「死者の日」がくる。欧州のローマ・カトリック教会では来月1日は「万聖節」(Allerheiligen)」、2日は「死者の日」(Allerseelen)だ。教会では死者を祭り、家族は花屋で花を買い、亡くなった親族の墓に参る。

ハムレットではないが、死んだ世界から戻ってきた者はいない。死者はもはや肉体世界に戻る必要はない。死者を憂いなく新しい世界に飛び出させてあげることこそ、まだ生きている人間の使命ではないか。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2017年10月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。