日本で、自殺という選択肢は社会的に「肯定」されていないか? --- 和田 行裕

2017年11月14日 06:00

自殺の問題が取り上げられる際に、決まって「自殺にまで追い込んだ」労働環境、いじめ、学校の責任などを問題の主旨として説明される。

もちろんそれらは改善されるべきことではあると思うが、「自殺をするまでの」や「自殺にまで追い込まれた」などの言葉は、暗に自殺という選択を「肯定」してしまっていないか。さらに、自殺した者の行為を否定することはタブー視され、無条件に自殺という行為に何らかの意味付けがなされる。

「自殺をするまでの」や「自殺にまで追い込まれた」などの言葉は、「だから自殺という選択をした」と暗に自殺という選択肢に理があるのだと言うことになる。

一方で、殺人事件の問題が取り上げられる際には、当然「殺人をするまでの」「殺人をするまでに追い込まれた」という言葉は使われないし、もちろんその言葉には違和感がある。

上記の違いを解釈すると、「殺人を犯す人の気持ちは理解できないが、自殺する人の気持ちは理解できる」ということになる。

なぜ他殺も自殺も命が奪われるという結果は同じであるのに、殺人の対象が異なるだけで人々の意見は全く異なってしまうのだろうか。

「他人を殺すことと自分を殺すことは全く違う」と言われるかもしれないが、一人の命を奪うことの重大さについては、どちらも同じなのだ。

もちろん当事者でないから自殺する人の気持ちはわからない、どれだけ辛い思いをしたかは到底理解できるものではない。しかし、それをいうならば、他殺を犯す人も擁護できてしまうのではないか。

彼らには彼らなりの思いがあって、どれだけ相手に憎しみを抱いたかは到底他人が理解できるものではない。または、サイコパスのような殺人者においては、どれだけ殺人が快楽かは他人が理解することはできない。

それでも、多くの人は殺人を犯さないわけで、人を殺すことはどんな理由があろうとも絶対にあってはならないことだと言うことができる。
それは自身に対する殺人であっても同じではないだろうか。

私はそうした論理矛盾が人々の感覚を無意識の内に狂わせてしまうことを危惧している。
社会的な意識における論理の整合性を取るならば、殺人と同じように自殺に対しても強く否定されるべきである。

次の犠牲者を一人でも減らすためにも、いかなる理由があろうとも自殺は愚かな行為であると敢えて言うべきではないだろうか。

和田 行裕    クラウドエンジニア

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