過去の「若気の至り」的な表現や行動はどこまで許容されるのか?

音喜多 駿

メリークリスマス!都議会議員(北区選出)のおときた駿です。

 

今年も無事に家族4人で、平穏な聖夜を迎えることが出来ました。

とかく独身&彼女ナシの身分の際は「正しいクリスマスの過ごし方」がまったくわかっておらず、日本海に飛び込んだり四国のお遍路周りをしたりと破天荒な日々を過ごしておりましたが、

都議会議員だけど、クリスマスが黒歴史だらけなので振り返ってみた【雑談】(2015年)
http://otokitashun.com/blog/daily/9901/

娘を二人抱える立派なおとーさんとなった私にとってもはや、クリスマスは家族と過ごす穏やかな記念日であります。

家族ができると、同じ日でもこれだけ変わるんですよね…ってことを思っていたら、昨年も似たような記事をすでに書いておりました(汗)。

クリスマスは、家族ができて良かったと心から思える日【雑談・ステップファミリー奮闘記】(2016年)
http://otokitashun.com/blog/daily/13756/

そこで2015年の過去記事特集を読んでいてふと考えたのが、「若気の至り」的な行動や表現はどこまで許容されるのか?について。

情報化社会となった今、過去の発言を取り上げられて著名人が「炎上」するケースは後を絶ちません。

もちろんそれなりの社会的立場にいる人が、いま現在進行系でも問題ある行動や差別発言をしているのであれば、それは糾弾されてしかるべきです。

一方で過去については、

・時代の空気や流れ
・その人の当時の年齢や社会的ステイタス

によって「許される」あるいは「許されていた」部分も確かにあったと思うのです。

なので、今の基準を当時に当てはめて、その当事者たちを糾弾するのはちょっと違うのではないかなと。

例えば今年は、あるバラエティ番組が20年以上前にヒットしていた、性差別を助長するようなキャラクターを復活登場されたことが多くの批判を呼びました。

この批判はまっとうなものですし、今の時代にあえてこれを放映しようとした制作者たちは責められてしかるべきだと思います。

一方で、だからといって20年以上前にこれを制作していた人々まで「許せない」「そいつは今、出世して部長になっているらしいけれど、糾弾するべき」となるのは、行き過ぎではないのかなと感じます(あくまで例え話です)。


なお、私自身もLGBT関連については過去に差別的な表現を用いてしまい、大いにお叱りを受けたことがありました。

上記の内容と矛盾するようですが、そちらについてはすでに時代も年齢ともに理由にできるような状況・内容ではなく、後に公人となったこともあり、非難されて当然であったと考えています。

改めて、その節は誠に申し訳ございませんでした。

話を戻しまして、過去のクリスマスのブログを改めて見ますと、まあ色々と私もヤンチャしている行動や表現が多々でてきます(苦笑)。

学生時代の2004年からずっと継続してきたブログも、そんな背景もありましてほとんどの内容を「非公開」にしたわけですが、それもそれでなんだかなあとずっとモヤモヤはしています。

過去の言動を遡及的に弾劾しすぎると、「じゃあもう全部隠しておこう」ということになり、政治家の場合はむしろ結局有権者の判断材料が減ったりするわけですよねえ。

今から見れば当然に「眉をひそめる」ようなことばかりでも、それはまさに若気の至り。

そういうキャラクターだったのね、とある程度まで許容される世の中であった方が、誰にとっても生きやすく面白いような気がしているのですが…。

おまけとして、クリスマスお遍路周りをしたときの過去ブログを復活させたので掲載しておきます。

クリスマスお遍路始末 -四国八十八霊場巡り奮戦記-
http://otokita.seesaa.net/article/310590973.html

うーん、色々とこの。強めのお薬を365日分出しておきますね、的な。

若気の至りとか言うけど、当時もう29歳だろうオマエって突っ込みはナシでお願いします!←

結論は特にないのですが、そんなことを改めて考えたクリスマスの夜。さて、寝静まった娘の枕元に、プレゼントを置きにいきましょう。

それでは、また明日。


編集部より:この記事は東京都議会議員、おときた駿氏(北区選出、かがやけ Tokyo)のブログ2017年12月24日の記事より転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はおときた駿ブログをご覧ください。