ヒジャーブ切り裂き事件誤報に見る「英語圏リベラル派」の病

2018年01月19日 11:30

@joe_warmington より引用:編集部

カナダにおける「ヒジャーブ切り裂き事件」の顛末

ほんのつい先日、Twitter(主に英語)で大きな話題になっていた事件がある。カナダのトロントにおいて、イスラーム教徒の11歳の女児が何者かに「ヒジャーブ」を切り裂かれるという事件が起きたというのだ。(詳細は以下を参照いただきたい。)

メディアはまるで「待ってました」と言わんばかりに一斉にこの事件を報じ、カナダの首相であるJustin Trudeau氏は「彼女が味わった恐怖がどれほどのものだったか、想像することさえできません」などといった声明を発表するなど、一時英語圏(のリベラル界隈)で大騒ぎになったのだが、それが数日前「そういった事件は実は起こっていなかった」という警察の公式発表があり、また本日(英国時間1月18日)付で女児の家族側から「謝罪」声明が出るに及んで、いよいよ本件が単なる女児の「虚言」であったことが確定的となった。

予め断っておくが、私はこの件に関して当該女児やその家族を責める意図は全くない。11歳の女児が虚言で周囲を困らせるというのは日常にありふれた出来事に過ぎないし、彼女が何か強い悪意を持ってこんな嘘をついたのではないだろう(と信じたい)。問題はむしろ「周りの大人」の対応の方である。

周知の通り、カナダというのは一般に人権問題やマイノリティ政策において最も「先進的」な国のひとつとして知られており、BBCのアンケート調査(2017年度版)において「世界に最も良い影響を与えている国」ランキングでも堂々トップに立つなど、まさに「多文化主義の聖地」のような国として賞賛されている国である。

そんなカナダでこのような悪辣な「憎悪犯罪(Hate Crime)」が、無垢な11歳の子供に対して発生したというのが真実なのであれば、色々な意味で十分にショッキングなことである。そしてこの「ショック」に乗じ英語圏のリベラル派メディアは「研究者らによると、近年カナダにおいて極右の活動が活発化していると報告されている(英ガーディアン紙)」(Researchers have documented an increase in far-right extremist activity in Canada, much of it targeting Muslims)、あるいは「この事件はカナダ政府に対しムスリムへの攻撃に対する更なる対処を迫る圧力を高じた」(This news has heightened pressure on Canadian governments to take further action against attacks on Muslims:デイリーメール)等といったような論調で、さもこれが「極右」による犯罪であるということを暗に示唆するかのような記述を巧妙に挿入しつつ、更なる「イスラモフォビア(Islamophobia)= ムスリムへの否定的感情」への対策をカナダ政府に迫っていた。

こうした報道は12日頃から出はじめてたのだが、その三日後の15日月曜日に警察が本件の事件性を否定する声明を出したと報道され(例・CBC)、各種メディアは一気に形勢を覆される。今回は別にメディア側の責任ではないとはいえ、彼らが一目散に報じた「憎悪犯罪」は文字通りの「Fake News」だったのである。勿論、事件の真相が掴めていない段階で早まった推論に基づき「Islamophobiaの増長」である云々と論じたメディアや知識人は、彼らの持つ偏見の強さ、そしてその偏見には何の根拠もなければ実際の現実を必ずしも正しく反映しているわけでもないということを事実として示してしまったという意味で自業自得であるが、しかし事件そのものが虚偽であったことに関してメディアに落ち度があったわけではない。

彼らの落ち度は、勝手な偏見に基づいて「このような事件が起こったに違いない」と全く疑うことなく決めつけて報道を先行させ、しかもそれに基づいて余計な「分析」をしたり、「対策」を求めたりしたことにある。逆に言えば、この事件はまさにリベラル派の基本的な「思い込み」というのがどういったもので、現実に起こる事件というのはあくまでその「思い込み」を裏付ける「証拠」として利用されるだけのものに過ぎない、すなわち彼らの見解が「現実」の方から導かれた「経験に裏付けられた見解」ではないかもしれないということをあまりに鮮やかに露呈させたという点に意義がある。

しかし今回のように「マイノリティ」側の文字通りの「被害妄想」と、自分以外の白人、特に保守的な白人を悪魔的な人種差別主義者であると看做して弾劾することに自己の存在意義を見出そうとする「リベラル」な西欧人の歪んだ「優越意識」の協奏曲を、本来そこに介在しなければならない不可欠の要素、つまり「マイノリティ」の「被害妄想」を「妄想」ではなく「現実」とする存在、すなわち「人種差別主義者/racist」を欠いたまま演奏してしまえば、それはトランプ大統領の自画自賛的な「Fake News」の何倍も悲惨な結果を招く。

「人種差別問題」への問い

現代において「人種差別主義/racism」を急速に増長させるものが「マイノリティ」による悪質な犯罪以外にあるとすれば、リベラル派の今回のような失態そのものがそれであろう。メディアへの信用はインターネット利用者の中で低下傾向にあるが、こうしたメディアの「早とちり」が何度も繰り返されれば、それは既にイデオロギー的に「社会は差別的である」という信念を持っている人以外の読者を少しずつ幻滅させるだろう。

最近は日本でも「差別」に関する議論がメディア上で徐々に行われるようになってきているようだが、今回のカナダの「事件」は私が以前から抱懐していた、『人種差別は単に「差別する側」の心無い発言や態度のみによって成り立つのではなく、むしろそれを「差別だ」と感じる被害者の「感情」によって成り立つものである』という、今日の西欧世界ではなかなか提唱しにくい「理論」を、端的に「事実」として提示するものであった。勿論、かつて行われていたような露骨な人種差別、すなわち特定人種をターゲットに、仮にそれが「白人」に対して行われた場合でも犯罪となるような行為を意図的に働くというタイプの「人種差別犯罪」は糾弾されるべきであるし、これに関しては被害者の主観に関係なく客観的に犯罪であるのはいうまでもない。

しかし、相手が「白人」(もしくは日本の文脈であれば「日本人」)であれば必ずしも「犯罪」にならない(あるいは刑が軽くなる)ような行為というのは本当に「犯罪」だと言えるのか。刑法にそのような根本的「不平等性」を持ち込んで良いのだろうか。近年日本でも強姦罪の規定が改定され、男性も被害者であり得るということが法的に認知されるようになったが、これは強姦罪が「女性」のみを被害者とする点である種の「不平等性」を持つということが問題視されたことに対する司法の対応であるという側面もある。そう考える時、物理的危害を含まない「憎悪犯罪(Hate Crime)」を法的に罰するということに内在する「人種間の不平等性」は、既存の法秩序を根底から揺るがすものであり、従ってそれがもたらす変革の大きさに相応しいだけの慎重かつ真剣な是非の検討が必要なのではないかと思われてくる。

もちろん、倫理的に「ヘイト・スピーチ」が問題であるということまでを否定するのではない。そんなことはなるべく「しない方が良い」のは自明である。ただ、「しない方が良い」ことと「それをすることは犯罪である」ということの間には決して超えられないギャップがあるはずであるし、そのギャップを無理に埋めようとすることには危険性が伴い得るのではないだろうか。

異人種間にどうしても生じてしまうある種の心理的懸隔は、相手の「差別意識」を犯罪化し糾弾することによって縮まるのだろうか。むしろそうすることで生ずる「心理的緊張」が、さらにお互いを遠ざけてしまうのではないだろうか。何か他に取り得る手段があるのではないだろうか。少なくとも、今の西欧社会のやり方が「正解」であるとは誰も言えないはずである。

テロリズムや中東における緊張は終わることなく継続し、ヨーロッパ各地では「極右」が台頭し、アメリカでは日々トランプ氏の大統領らしからぬ発言のひとつひとつニュースにして揚げ足を取ることが「ニュース」として報道される一方で、アメリカ以外の西欧リベラルメディアもインターネットの普及で離れていく読者を繋ぎとめようとセンセーショナルな事件や、場合によっては今回のようなFake Newsでさえ流すことを厭わないほど切迫した状況に陥りながらも「現代知識人の良心の守護者」を自称し、SNSは知らぬ間にどんどん検閲を強化させ、その一方で「性差別問題」に関して個々の事件の真偽が定かにならぬままSNS上でモットーだけが一人歩きして過熱化し、最早社会のあらゆる場面で「良識」が失われ、刹那的な熱狂だけが無意味に繰り返されている。

こうした西欧社会の現状を目の前で見ていると、「差別」の問題が「差別される側」の感情を爆発させることによって解決するとはどうしても思えない。私自身、西欧社会に「有色人種」として存在している立場上、「差別」に対する漠然とした恐怖心のようなものが理解できないわけではない。

だが、我々日本人の祖先はかつてもっと差別が横行し、それこそ下手をすれば奴隷にされかねないような危機に突如見舞われた時にも、決して単に諦めて降参し、相手の「非道」を恨みつつ面従腹背の姿勢を取ろうなどとはしなかった。彼らはともすれば差別的な態度を見せたかもしれない西欧人を別段恨むこともなく、むしろ彼らに高給を払ってでも彼らの持つ知識を謙虚に学び、それを基に自らの力で社会制度を整え、経済を興し、軍備を整えて西欧に立ち向かったのである。

つまり、日本人は西欧に頼らずとも文明国として独立できるということを自ら実際に示すことで、その差別観を自力で打ち破ったのである。そういう「解決」もあるということは、今一度思い返されても良いのではないだろうか。西欧人は別に悪魔ではない。「人間」は皆どこまでいっても「人間」なのである。その単純な事実を理解すべき義務は、「マイノリティ」の側にも課せられているのではないだろうか。

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