人間愛のないがん医療

今、日本にいて、明日朝、羽田からシカゴに戻る予定だ。1週間の滞在の間、火曜日から水曜日にかけて、いわき市に行き、木曜日と金曜日は徳島にいた。月曜日には国際医療福祉大学三田病院で、肉腫センター主催の講演をしたので、1週間に3回の講演会をした。昔は、これくらいの活動は平気だったが、さすがにシカゴーいわきー徳島―シカゴの移動は体には厳しいものがある。

しかし、福島県の被災地で地域医療に注力している人たちに会ったのは、いい刺激になった。7年前、大震災の被害に遭われた方たちに、何か貢献したいと1年間もがき続けたが、何も出来なかった。そんな自分が情けなかったし、当時の政権に失望した結果として、今の私がある。6年間シカゴに暮らし、力を結集すれば、日本を世界に冠たるがん医療先進国にできるのではという想いが募ってきた。その一方で、今さら、私が言い出しても周りはついてこないのが現実だと思う。そんな心の葛藤が1年以上続いたが、多くの患者さんから「日本に戻って来てください」という声を直接聞き、日本に戻る覚悟を決めた。敢えてこの歳で苦労を買って出る必要はないと思うが、心がそう叫んでいる。今回の帰国期間中にも、これでいいのか日本のがん医療という声を聞いた。 

あまりにも安易に「あなたは6ヶ月です」「あなたは3か月です」と予後を告げる標準医療・マニュアル医療に怒りを覚えたという声を3回聞いた。外食6回で3回だから、確率は非常に高い。決して医療側だけの責任でこのような無機質な心の通わない医療になったのではない。「患者に告げなかった」ことを極悪非道のように報道したメディアの責任が最も大きい。医療側も重い心の負担を背負い込むことなく、統計学的な事実とおりに(悪く言うとマニュアル通りに)余命を宣告することが科学的だと喧伝した。医療は科学的であるべきだが、私は人間愛を無くしては「医療」と呼ぶに値しないと思う。 

三田病院の講演後に、一人の患者さんから、「希望を持って生きることが私たちには必要だ」と涙を流しながら訴えられ、演者席で思わず涙ぐんでしまった。母が亡くなる前の6ヶ月間を振り返ると、本当に辛い日々だった。私の同級生に、余命を宣告するのは私に任せて欲しいと言ったものの、最後の最後まで母には切り出せなかった。そして、自宅に連れ帰った時に、タンスの引き出しから白い死装束を見つけた時には、涙が止まらなかった。言わなくても本人にはわかるものだと。米国流の在り方が日本人に適しているのかどうか疑問だ。私は、患者さんの苦しみを背負い込むのも医師の仕事だと思っている。患者さんの家族から、患者の死後に訴えられても、患者さんの精神的な苦しみを背負うのも医療の一部だと思っている。築地の新聞社からは、時代錯誤だと批判されそうだが、「自分が亡くなる日を数えて暮らせ!」と告げることは血が通わない医療だと思う。 

そして、突然話が変わるが、AMEDが、私が立ち上げたバイオバンクの維持をする機関を公募したと聞いた。はっきり言ってアホだ、虚けだ、大馬鹿だ。東京大学医科学研究所にDNAバンクも血清バンクもある。物理的に他の機関が維持できるはずがない。すべて公募する取り決めだから公募するでは、馬鹿の一つ覚えだ。何の思考力もない組織であると言わざるを得ない。公募にすることによって、すべて選考・評価委員会の責任にするなら、各省庁の研究費運営組織よりも、質が悪い。各省庁でも、先を見据えた研究案が練られている。国家戦略としてトップダウン戦略が必要なものがあるはずで、それがなければ魂のない仏像と同じだ。歯車を公募で集めても、すべての歯車がかみ合わされないと機能しない。不可欠な歯車が何か、誰に作らせればいいのかを考えるのが、本来の責務だ。こんなことを書いていると、日本に戻ってもAMEDの支援は期待できない。

そして、正午に、BS12の「賢者の選択」という番組に出演する。私の思いを語った番組だ。ぜひ、ご覧になっていただきたい。


編集部より:この記事は、シカゴ大学医学部内科教授・外科教授、中村祐輔氏のブログ「中村祐輔のシカゴ便り」2018年2月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。