企業の宗教的側面

死期の迫った農夫は、のらくら息子たちに、自分の葡萄畑に宝物を隠してあるといって死んだ、息子たちは、畑を隅から隅まで掘り返したが、宝物は見つからなかった、その代わりに、葡萄がよく実った。これは、イソップの「農夫と息子たち」という有名な寓話である。寓意は、人間にとって苦労こそが宝物だとされている。

苦労こそ宝物という道理を説くことによっては、息子たちに、その道理を理解させることはできなかっただろうし、そもそも、苦労する気のない息子たちに、体験によって、道理を理解させることもできなかったであろう。事後的に、理屈は生成されるのであって、事前には、理屈は機能しない。故に、どうしても、先に、嘘が、いうなれば宝物の神話が創造され、その神話が信じられることを必要としたのである。

この話、ウェーバーの資本主義の精神の起源にも通じないであろうか。あの宗教改革の指導者カルヴァンが唱えた予定説、即ち、神による救済を受けられるものは最初から決まっているという説だが、この予定説こそが神の摂理に従った合理的な経済生活、即ち、勤勉と節約に基づく経済生活への誘因として働いたとする有名な学説である。

救済されるかどうかは予定されているにしても、自分が救済されるかどうかが不可知である以上、人々は、自己の内面の問題として、救済への確信を求めた、あるいは、求めざるを得なかったのである。その確信を高めるための宗教的精進の道こそが経済的な勤労と節約であり、結果的に、それが産業資本の形成につながったということである。

「農夫と息子たち」においては、嘘を信じることが原初にあり、資本主義の精神の起源においては、救済への信仰があったのである。信じることによってのみ、勤労は可能であり、勤労の齎した経済的成功は信仰を強めていくが、いずれ、原初の信仰は後背に退き、勤労と経済的成功の関係に関する経験知の形成は、それ自体として、経済発展の原動力に転化していく。しかし、いかに信仰が希薄になろうとも、原初における信仰は決して完全には消滅しないはずである。

資本主義の原点においては、成長の担い手は、個人の手工業者であった。その後、現代資本主義の形成において、成長の担い手が内部組織をもった企業に変わったとき、その企業の内部組織を支えたものは、企業内で共有されてきた何らかの世俗的な確信だったのではないか。例えば、成長への確信というようなものである。

資本主義の競争社会を生きることは、不確実性への賭け以外のなにものでもない。賭けの結果は、神のみぞ知るものだ。神の目から見れば、淘汰されていく企業も、革新の連続により成長を続ける企業も、予定されているが、結果が不可知である限り、成長への確信を得るために、不断の経営努力を続けなくてはならない。この構図は、資本主義の原点における信仰と勤労の関係と同じではないだろうか。

創業の神話、企業の伝統、文化、風土、理念、哲学などと呼ばれるべきものがある。これらは、創業者や経営者の個人的確信ではなくて、それが組織化し、組織内で空気のように自然に共有され、信じられ、呼吸され、組織の所属員の行為を自然に律するものとなっていなければならない、ちょうど、生活のなかに信仰が溶け込んでいたように。

 

森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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