東日本大震災から7年

2018年03月11日 18:00

産経新聞に「東日本大震災から7年 不明者2539人、避難生活7万3千人」という表題の記事があった。早いもので、あの日から7年もたった。不明者が依然として2500人もいることや、避難生活を続けている方々が7万人を超えるという実情に心が痛む。3月11日の地震があった時間、私はイノベーション推進室長として、経済産業省の関連する会議に出席していた。1月に着任してから、ようやく推進室の歯車が回り始めようとしていた矢先だった。あの日からあとの9ヶ月ほどの記憶は断片的にしか残っていない。被災者の方々の苦労と比較すれば、私の苦労は1%にも満たないだろうが、苦しく、苦々しく、重苦しい9ヶ月だった。

シカゴに移ってからも、当時の推進室のメンバーと顔を合わせることが、青の9ヶ月の記憶と重なり、精神的にも厳しかった。震災後の日本の永田町と霞が関の様を間近で見て、「絶望」という文字しか、頭に浮かばなかった。シカゴ大学に着任して、がんの臨床試験の新規申請が毎月20件前後あるという実情を知って、日本は永遠に米国には追いつけないと「絶望」の色が濃くなった。

しかし、4-5年を経て、制度さえ整えることができれば、勝負できるのではと思えるようになってきた。今さら日本に返ってもという気持ちと、日本でがん患者さんや家族に貢献したい気持ちが、複雑に交錯した日々が続いたが、リキッドバイオプシー・ネオアンチゲンというがん診療での新しい潮流を米国癌学会や米国臨床腫瘍学会などで目にした。この新しい分野は、ゲノム学・免疫ゲノム学という私の30年以上に及ぶ研究のど真ん中にある研究分野である。特に、免疫ゲノム学はシカゴ大学に移った後、私が取り組んだ最大のテーマである。

やれば、勝てるという想いがさらに募ってきた。そして、天の導きを感じたのは、患者さんからの声が届き始めたことだ。外科医の時の体験が、私を遺伝性のがんの研究へと導いた。留学した時は、染色体地図研究と遺伝性疾患研究が大きなうねりとなって、1990年のヒトゲノム研究へと突入する、ゲノム前夜となっていた頃だ。幸運にも、ユタ大学ホワイト研究室というゲノム前夜にもっとも大きな貢献を果たした研究室で、染色体地図作成のコアメンバーとして研究に携わり、ゲノム研究の重要性を認識する立場にいた。

帰国後、私が「ゲノム研究は、これからの医学・医療にかけがえのない分野だ」と発言した時、医学研究の大御所に「人の流行に乗るような研究はするな」と怒鳴られたことがある。心の中で、「流行に乗ったのではなく、この流れを作ってきた一人だ」と叫び返した。そして、がん研究・遺伝子多型研究・バイオバンク・全ゲノム相関解析と必死で取り組んできた。がんペプチドワクチンも始めた。

そして、ゲノム医療こそ、これからの日本の医療に不可欠な分野だと確信して、ゲノムを基盤とした医療インベーションを起こそうとした時の3.11だった。その年の終わる頃には、被災者の方々に何もできない自分が情けなく、悲しく、たまらなくて、自分自身が嫌になってしまった。

そして今、人生にはいろいろな巡りあわせがあるのだと実感している。ゲノム医療は、日本という国の将来にとって、患者さんのために不可欠だ。そんな思いが日本に戻ることを決意した最大の理由だ。昨年、思い出したくもなかった旧医療イノベーション推進室のメンバーに無性に会いたくなって、同窓会を開いてもらった。集まっていただいた多くのメンバーの顔を見て、2011年1月の医療イノベーションを起こしたいと奮い立たせた、あの頃の気持ちが蘇ってきた。そして、1月の終わりに、福島県で講演する機会を得た。地域医療を支えて頑張っている人たちに感動した。被災者には何の貢献もできなかったが、がん患者さんや家族にはわずかでも貢献したい。私の人生に残された課題はそれだけだ。


編集部より:この記事は、シカゴ大学医学部内科教授・外科教授、中村祐輔氏のブログ「中村祐輔のシカゴ便り」2018年3月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。

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中村 祐輔
医学者、内閣府SIPディレクター

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