セクハラ問題に見る「モラルの破壊者」は誰か

新潟県知事、財務省事務次官と大物の辞任が相次いだ。一身に非難を浴びているのは知事と次官だが、果たしてそれでいいのだろうか。本当に非難されるべきは援助交際相手の女子大生とテレ朝の女性記者ではないか、という見方も可能であることを示したい。むろん報道で知り得た限りの知識による推測であり、真相は「藪の中」だが。

女子大生は知事と援助交際をしていたとされる。一種の取引関係であり、私情を交えた関係であったかもしれない。知事は相手が週刊誌に売るとは夢にも思わなかっただろう。このような関係を外部に漏らすのは「商業モラル」に強く反するからである。女子大生を信頼していたとも言える。しかし彼女の行為はまさに裏切りである。背後からいきなり撃ったのである。しかも結果は重大で、職を失うだけでなく社会的に葬られる可能性もある。

一方、テレ朝の女性記者は財務次官を予告なしに背後から撃った点は同じだが、少し事情は複雑である。彼女は上司にセクハラの事実を報道するように頼んだが、断られた。テレ朝は2次被害を心配してのことと言っているが、これはたぶん本当の理由ではない。報道することで財務省との関係が悪くなり、取材に悪影響がでるので「これくらいは我慢してくれ」と抑えたのだろう。彼女のセクハラを救うのなら担当を変えるなどの簡単な方法があるのに、放置したのはおかしい。世間ではよくあるケースだが、正義の立場からセクハラ報道を熱心にやっているテレ朝がやればダブルスタンダードの誹りを免れない。

さらに女性記者はセクハラの事実を隠し録音した音声と共に新潮に渡したという。この時点では次官の辞職と政権への打撃は予想できる筈だ。第三者への情報提供は重大なルール違反であり、テレ朝の監督責任が強く問われる。この点に関しては財務省に抗議するのではなく、逆に謝罪すべき立場である。今後、テレ朝だけでなくメディア全体の信用が低下し、取材に影響が出るのは必至だろう。記者に信用がなければ話はできない。

女性記者はセクハラが嫌なら上司に担当変えを求めることも出来ただろう。また身を守るために卑怯な隠し録音をしたというのもおかしい。録音を次官に示して、今後は止めるように要求できたはずである。そして次官とは数回の会食があったという。セクハラ発言があったとすれば、それは徐々にエスカレートするのが普通である。一般的な話だがこんな時、たいていのスケベな男は相手の態度を見ながら話を少しづつエスカレートしていくわけで、相手が心底から嫌った態度を見せればそこでストップする。私の推測だが毅然とした拒否の姿勢がなかったのではないか。曖昧な態度が次官の誤解を誘った可能性もある。

結局、財務次官は辞めざるを得なくなり、政権は支持率の低下を余儀なくされた。代償としては大きすぎる。女性記者は次官の信頼を裏切ったわけである。そしてひどい裏切りに見合うだけの理由は見当たらない。次官にとって夢想だにしなかった事態であったろう。次官側に非がないと言うつもりはないが、内閣支持率まで低下させる結果の重大さと事件の大きさとがとても釣り合わないのである。これはアホな野党とメディア報道の問題でもある。

二人の女性に共通することは相手の信頼を裏切るという背信行為である。私が腑に落ちないのは、知事と次官に対する非難は山のようにあるが、この女性たちの行為に対しては誰も非難しないことだ。社会的に葬られる可能性を知りながら、信頼してくれている相手を裏切る行為は許しがたい。社会人としての基本的なモラルの欠如である。これが許されるのは命が脅かされるときくらいだろう。私はこのような行為をする人物は信用できないし、絶対に関わりたくない。反面、非難されている知事や次官に信用がないとは思わない。

裏切り行為、つまりこの場合の密告行為が非難を受けないのはメディアがこれを商売道具にしているからではないだろうか。誰かが週刊誌に密告、週刊誌が取り上げ、それをテレビや新聞が大々的に報道する、というルートが重要性を増している。こんなとき、密告者を非難すれば密告するものがいなくなって困るわけである。非難どころか密告者に謝礼をして奨励しているのである。メディアの商法のおかげで、人を裏切る、背後から撃つという行為を抑止する筈の倫理観が弱くなっているのではないだろうか。実際に背後から上司を撃った19歳の巡査もいたが、裏切りや卑怯の概念が彼を止めることはなかった。「卑怯」という言葉も死語になりつつあるように思う。

倫理の崩壊というとちょっと大げさだが、文化を構成する重要な要素のひとつがメディアの商業主義の食い物にされているように見える。「人はパンのみにて生くるにあらず」というが、メディアは何よりもパンがお好きで、パンのためには何でもするようだ。モラルの破壊者はメディアであり、騒ぎに乗じて政権の足を引っ張る野党である。

ついでに、セクハラという言葉について述べたい。この言葉の概念は非常に曖昧、かつ主観的な要素が大きいだけに、安易な決めつけに使われと危険であると思う。次官の、セクハラという認識がなかったとの発言があるが、その可能性もある。基準が人によって違うわけであり、うまくかわすことのできる女性もいる。セクハラと言えば「泣く子も黙る」では弊害も大きい。上司と部下というように逃げられない関係を成立の要件にすべきであろう。適用範囲が大きくすれば、男が女を口説くことが大きなリスクを伴うことになる。ちょっと大袈裟だが、それは将来の人口減少にもつながる。だいいち、そんな世の中、面白くもない。

岡田 克敏 元大手商社勤務
1945年、京都生まれ。京都大卒。マスメディアに関心あり。猫好きで数匹を飼っています。

※編集部より:岡田氏は初期のアゴラ執筆陣の一人で、今回、7年ぶりの寄稿となります。