暴力のない「平和」な学校:教員の「責任」とは?

2018年05月04日 08:00

学校は、保護者のクレームに怯えています。「体罰」がいけないというよりも、保護者からのクレームをいちばん恐れています。教員は、「体罰」が心の底から悪いものだと思っているのではなく、保護者や上司からおこられるのがことさら怖いのです。

現役高校生の實川瑞樹さんの記事 暴力のない「平和」な学校:真の恐怖とは? を拝見しました。その発言には「覚悟」があったと思いますので、心からの敬意を表したいと思います。教員は、サービスの受益者(卒業していった子供)のお話を聞くことはじつはあまりないので、とても身につまされる思いでした。

人は「見たいものしか見ない」し「聞きたいものしか聞かない」

實川さんはこう問いかけます。

何不自由なくみんな仲良く、時には喧嘩する、そんなごく普通の学校生活が繰り広げられている。と、あなた方大人の目に映っているのでしょう。暴力のない世界こそが、「平和」だと。本当にそうでしょうか。

ぼくも、そういう幻想の「平和」ではなく、リアルな人間観にもとづいて、学校経営なり学級経営なりをおこなっていくものだと考えていました。

しかし、じっさいの学校現場はまったくちがうものでした。

教員も保護者も「見たいものしか見ない」し「聞きたいものしか聞かない」ものなのでした。「学級経営はうまくいっていませんが、最大限努力します」と言おうものなら、保護者は「わが子のクラスがそんな状態になっているなんて」と卒倒しそうになり、逆上して烈火のごとく怒りをあらわにします。

「厳しい状況なので、学校と家庭で協力してクラスをよくしていきましょう」という前置きで真摯に語ったつもりでしたが、そうは受け取られませんでした。

そういう意味では、ぼくはぎゃくにナイーブで、理想に燃えていたのかもしれません。

「学級崩壊」を他の教員や保護者は見て見ぬふりをする

ぼくも「学級崩壊」していたクラスを何度か担任したことがありますが、それは実に悲惨な役回りです。子供たちは学年の初めから教員を信頼していません。同学年の同僚からのサポートは受けられますが、管理職や教委は日和見の場合が多いです。「学年のチームワークが大事」と口では言って、「学年で何とかしてよ」というのが彼らの本音でしょう。

今学校という教育現場ではそれだけじゃなく、いじめをはじめとした立派な犯罪から犯罪とは言えない小さないやがらせまで、多種多様な悪行がまかり通っています。それは生徒はもちろん教員にすら止めることはできません。
「体罰」という手段を奪われたから。ここで述べたことはおそらくどんな研究や調査とも矛盾するかと思われます。

「体罰」を奪われたというのもありますが、ようは、学校側が及び腰になって、子供に懲戒ができないというのが最大の問題だと思います。学校教育法第11条には、子供の懲戒に関する規定がありますが、それが発動された事例は寡聞にして知りません。

つまり、懲戒行為(出席停止や別室指導)を発動した結果、その子供の保護者や関係者からのクレームがくることが予想されます。そのクレームに怯え、学校も教委も文科省も、「なにもしないのがいちばんいいよね」というところに落ち着いてしまっています。なんとも悲しい均衡状態です。

「懲戒」がないことで「やんちゃな子供」はさらに増長する

さらに悪いことに、そうなると「やんちゃな子供」のご機嫌を損ねない指導がいちばんよいということになり、「やんちゃな子供」はわが物顔で学校を歩き回ることになります。

あなた達大人が同じように子供を教師の暴力から守ろうとした結果、そんなものよりももっと恐ろしい、耐えがたい傷を背負うことになりました。

「ふつうの子供」が損をする学校社会

實川さんの心に残した傷は、学校教育に係るものたちが、ほんとうに考えなくてはならない問題です。冗談のようですが、今でも研究授業がいちばん重要だと思っている教員や管理職は多いです。

ぎゃくに教員が秩序を第一に考えすぎて必要以上に締め上げて、クラスは安定こそしていますが、子供たちの目は死んでいるという場合も多々あります。これも、「懲戒」が発動されないので、教員の防衛本能が過剰に発現した結果だと考えられます。

文科省は「ゆとり」か「つめこみ」かとか「グローバル教育」とかのんきな議論をするのではなく(そういった議論は楽しいでしょうが)、實川さんのいうほんとうの「学校問題」に一日もはやく真摯に向き合って話し合ってほしいと、ぼくも願っています。

中沢 良平(元小学校教諭)

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