藤田ニコルに見る教育のパラドックス

高部 大問

MBS「情熱大陸」より:編集部

「にこるん」と「ままるん」

「にこるん」の愛称で親しまれる藤田ニコル氏。最近では大人にもファンが増えつつあり、最早それ以上の説明が不要なほどの人気ぶりだ。先日の『情熱大陸』では、彼女の母でありその強烈なキャラでファンからも親しまれる「ままるん」の肉声が収められていた。

私は大学で学生の進路支援に従事しており、大学生や高校生の保護者の皆様とも交流が少なくないが、一教育関係者としては、ままるんの無意識的で無自覚的な行動には教育的学びが多かった。

ままるんの「知らねぇよ」

楽屋での親子(MBS「情熱大陸」より:編集部)

ままるんは伴侶と離婚して埼玉に住み、「髪を振り乱して昼夜働いた」そうだが、その母の背中を見て子は育った。高校生で芸能界にデビューして収入があるうちは「家賃払うよ」と母に申し出ていたことは象徴的なエピソードだが、ポイントはままるんが意図していなかった点だろう。周囲からままるんは「どうすればあんな良い子になるの?」と言われるが、ままるんからすると「そんなの知らねぇよ」だそう。当然だろう。なりふり構わず働いていたのだから、「(家賃支払を申し出るような)良い子に育てよう」などと子の方を向いてゆったりじっくり教育方針について考える時間は微塵もなかったはずである。にこるん本人も、「父がいればもっと甘かったと思う、自分に」と述べている。

教育のパラドックス

ここに、教育のパラドックスがある。ままるん方式が教育のあるべき姿の全てかは分からないし、にこるんやままるんのような環境が最善かも分からない。意図的に演出できる環境なのか、できたとして意味があるのかも。しかし、それが意図せざる帰結だったとしても、確かに現実に存在し、一定の効果をもたらしたひとつの教育の形であることは間違いない。

教育者はつい意思と意図をもって教育しがちだが、親や教師は必ずしも「教育するぞ!」と腕まくりする必要はない。「子どものため!」「学生のため!」と鼻息荒く意気込めば意気込むほど、逃げていく子どももいる。大人の狂気さに嫌悪感や恐怖感を覚え逆効果なことだってある。それらしい教材や教育コンテンツは仕事をした気にはなれるかもしれないが、それは教育者のエゴであり自己満足である。本当に満足させなければならない相手は、子どもではないだろうか。

背中で教育する

口で語るだけが教育ではない。教科書を読み上げるだけが教育ではない。大人自身が一所懸命に目一杯生き抜き、生ききること。その背中だけで十分に教科書の役割を果たしてくれる。教育しなくても教育はできる。与えない教育もある。口で語らずとも背中で語ればよい。教育界でよく言われる慣用句に「魚を与えるのではなく魚の釣り方を教えよ」というものがある。元々の意味は「人に魚を与えると1日で食べてしまうが、人に釣りを教えれば生涯食べていくことができる」とされる(出自は諸説あり)。

教育者は学習者に都度答えを与えるのではなく自走できるように方法を学ばせよ、との教えだが、より重要で高難度の仕事は、「そもそも魚を食べたいと思ってもらうこと」である。子どもの意欲の芽に着火し、スタートラインに立ってもらわないことには、釣り方はもちろん、魚をちらつかせたところで猫に小判(ここでは「子に魚」の方が適切か)である。「馬を水飲み場に連れて行くことはできるが水を飲ませることはできない」という諺もあるが、教育現場で日々痛感するのは、「馬を水飲み場に連れて行くことが最も難しい」のである。そのひとつの方策は、ままるんのように背中で教育することだろう。

子どもに主体性ややる気を身に着けさせようと躍起になる前に、大人自身が頑張っていれば子どもも頑張るものだ。努力しない大人のもとで育った子どもは努力しない(=努力する能力が身に着かない)という研究もある(『階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ』 苅谷 剛彦)。背中で語れる大人が増えれば、魚を釣りたくなる子どもは増える。そんなことを予感させてくれ、ルンルン気分にさせてくれた「るんるん親子」に感謝したい。教育のヒントはこんなところにもあったのだ。

高部 大問(たかべ だいもん) 多摩大学 事務職員
大学職員として、学生との共同企画を通じたキャリア支援を展開。本業の傍ら、学校講演、患者の会、新聞寄稿、起業家支援などの活動を行う。