最後の授業を飾ってくれた日本商社マン

2018年06月13日 17:00

北海道ツアーの回想をしようと思ったところ、期末の業務が山のようにのしかかり、たちどころに忙殺されてしまった。そんなところへ、10日、うれしい客人を迎えた。中国業務37年の経験を持つ三菱商事調査部の小山雅久さん。小山さんとはかつて北京時代に知り合い、東京に戻ってからも連絡は途絶えず、私が汕頭大学に赴任する際には、神保町で歓送会を開いてくれた。

小山さんは、東京から広州経由で10日、汕頭入りし、その夜は地元名物の牛肉火鍋でもてなした。二か月前から計画を練って、ようやく実現した訪問である。せっかくの機会であるし、日中文化コミュニケーションの授業で講義をしてもらった。中国語が堪能なので、通訳を介さず、直接のコミュニケーションができることは大きなメリットである。

小山さんは、1980年に入社後、計2年間、台湾と北京で中国語研修を受けた後、三菱商事の北京、天津、上海事務所に勤務したほか、東京本社で中国担当のリーダーを務めた。中国ビジネスの経験が37年に及ぶベテラン商社マンだ。私の歓送会で、「必ず汕頭大学に尋ねに行く」と言った約束を守った、義理堅い人物である。こうした人柄がビジネスでも役立ったことは想像に難くない。

授業での講義は、80年代以降、10年ごとに変化してきた中国ビジネスの姿を、現場での経験を通して語る内容だった。

80年代は。主として通訳として対中関係の基礎作りにかかわった。商社が「日本企業の尖兵」を果たした時代で、中国の近代化路線に沿ったインフラ建設への協力が中心だった。90年代は、92年、鄧小平の南巡講話によって改革開放へのアクセルが高まり、日本政府の対中ODAが活発化した。三菱商事も三菱グループの中核として中国指導者との関係を深め、製鉄やエネルギーなど幅広い分野でビジネスを展開した。

2000年に入ると、中国がWTOに加盟し、海外進出に力を入れ始める。中国の門戸も徐々に開かれ、三菱商事の北京現地法人が認可される。現在に至る2010年代は、中国の国際化が急速に進み、一帯一路構想に象徴されるように、中国資本の海外進出がさらに強化される。中国の経済規模が日本を上回り、今では自動運転などAIの開発やネットビジネスの展開で、世界の最先端を行くまでに成長を遂げた。


そこで、小山さんは昨今の日本社会に対する感想を語る。

中国は今や国際社会の中で日本以上の存在感を持っている。それにもかかわらず、日本は旧態依然の対中観しか持てずにいる。隣国の台頭に、あるいは無関心か、あるいは逆に、過剰な脅威や恐怖を感じている。日本の若者は内向き志向で、海外に出る意欲を失っている。猛烈な勢いで留学生が増えている中国と比べれば、その差は歴然としている。日本は今こそ、世界に目を向け、中国との個別的な関係ではなく、国際社会の中でいかに多様な関係を築いていくかを模索しなければならない。

学生たちの関心は高く、日中の産業構造は米中貿易摩擦のような衝突を招く恐れはないか、中国の若者に対する助言はないか、企業が求めているのはどんな人材なのか、などと矢次早に質問が続いた。小山さんは一つ一つに丁寧に答えてくれた。要は、日中は相互の優位を補いあい、引き続き共存共栄を図ることができるとの結論だった。学生たちも、日本のモノづくり文化など、中国に欠けているものを十分認識しているので、小山さんの話もすんなり理解できたようだった。

有意義な最後の授業となった。小山さんの義理堅さ、若者への温かいまなざしに、深く感謝したい。

私は授業を通して伝え続けた「一期一会」の意味を繰り返した。縁を大事にする姿勢、それが凝縮された時間を生み、人生を豊かにする。縁側に腰かけただけで、そのまま去る人もいる。だが、さらに打ち解けて、居間に招かれる客人もいる。私たちはすでに家の中で車座に腰かけ、自由に言葉を交わす仲になった。これからもこの関係を大事にしようではないか。

これが締めくくりの言葉である。


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2018年6月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。

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加藤 隆則
汕頭大学新聞学院教授、元読売新聞中国総局長

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