西野監督の毛利元就的「はかりごと」采配

2018年06月29日 11:30

JFAサイト、Wikipediaより:編集部

西野監督をみて毛利元就の「はかりごと多きは勝ち、少なきは負け候と申す」というような言葉を思い出した。それに好感をもつかどうかは別にして、批判覚悟で、決勝トーナメント進出のためのもっとも多い可能性を追究することに徹したことは素晴らしいと思う。

毛利元就の言葉というのは、長男の隆元宛ての書状に「(毛利が生き残り得たのは)ひとえに武略、計略、調略かたの事までに候。はかりごと多きは勝ち、少なきは負け候と申す」と記しているものだ。

元就は常に数十人の間者(細作)を抱え、収集し分析した情報を基に「彼と己」を知り、精緻に戦略を組み立てた。

西野監督は、考え得るあらゆるシティエーションを想定して、そのときにどう対処するかえていたのだろう。交代メンバーも落ち着いて行動できる者を選び、ヒロイズムと無縁で結果にこだわった。私はフェアプレイに徹して遅延行為はいっさいしないというなら、それはそれで美しいから、それに徹してもよかったと思う。

他国に侵略されようが、殺されようが、女性が陵辱されようが、憲法第9条に殉じてもよいという平和主義者を私が尊敬するのと同じだ。

いちばん、いけないのは、無抵抗主義を徹底すれば平和は守れるとか言う功利的おまじない理想主義だ。
もし、西野監督が、フェアプレイに徹して、「負けてもいいからそうした」といったらそれはそれでよかったと思う。

しかし、西野監督が、「チームとすれば本意ではないけど、勝ち上がる中での戦略的なところなので、選手も本意ではないけど、成長していく中での一つだと思う」と割り切り、不評を甘んじて受ける決断をしたのは、それはそれで理解出来る。

逆に、仮に西野監督が「フェアプレイに徹すればそれが結果に繋がる」式の責任回避のご都合主義的な戦略をとっていたのなら、それはもっとも危険だった。監督の采配について、そういう中途半端な方針であるべきだったという論評がいちばん、頓珍漢なのだ。

すっきりしないが、勝ったから良しとしようというのは、卑怯な考え方だと思う。悪魔の選択をあえてしたということで、それを肯定するかしないかであって、その悪魔の選択の是非を論じないというのは、もっとも卑怯だ。

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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