「不安」はどこからやってくるか

エドヴァルド・ムンクの「叫び」

人間はいつ頃から「不安」を感じるようになったのだろうか。出生と共にDNAに刻み込まれていた「不安」が飛び出してきたのだろうか。それとも成長し、社会経験を積み重ねていくプロセスで「不安」が生まれてきたのだろうか。

人はスーパーマンを考え出し、それに憧れるのはスーパーマン自身が「不安」から遠い存在だからではないか。困った人を救う一方、自身は無敵だ。たとえ撃たれたとしても死なないし、明日の生活のために眉間に皺を寄せることもない。

私たちが密かにスーパーマンに憧れるのは、彼の超能力ではなく、彼が「不安」から解放された存在だからではないか。

もちろん、「不安」にはさまざまなカテゴリーがあるだろう。生活の糧、健康問題、将来の行方など、いろいろな状況は考えられる。仏教の釈尊が指摘した四苦(「生」「老」「病」「死」)は人間の原始的な「不安」の本源かもしれない。

マイクロソフト創設者・世界的富豪のビル・ゲイツ氏には「不安」はないだろうか。明日の糧は大丈夫だ。自身の健康状況は常に世界最高の医者によって管理してもらっている。何か生じたら即対応できる体制が敷かれている。それではゲイツ氏はスーパーマンのように「不安」がない存在だろうか。想像するだけだが、彼にもやはり「不安」があるはずだ。

世界最強国の米大統領、トランプ氏に「不安」はないだろうか。明らかに「ある」だろう。70歳を超えた人間が感じる体力の衰えから政治の世界での権力抗争まで、「不安」はひょっとしたら通常の平均的人間より多いかもしれない。トランプ氏の一貫性のない言動や物議を醸すツイター発信は自身の「不安」を隠蔽するための一種のガス抜きかもしれない。

社会のトップ層から最下層まで人は等しく「不安」を感じながら生きていると考えて間違いないだろう。「不安」を共有しているという点で人間は平等だ。文豪フョードル・ドストエフスキーは「不安は人間への天罰だ」と述べた。

宗教の世界はこの世の「不安」から解脱を願い、至上の存在に帰依することを求めるが、この世の宗教人も残念ながら「不安」から解放されていない。

オウム真理教に入った青年は「信仰生活が長くなり、グループ内の問題が見えてきてもそこから脱退することは至難だった」と証言している。「不安」が脱退を阻止し、問題をカムフラージュし、正当化することで生きてきたというのだ。宗教指導者は信者に「不安」を煽ることで組織への忠誠を求める。いずれにしても、赤子の寝姿は平和で安寧のシンボルのように受け取られるが、赤子に「不安」がないと誰が確信もっていえるだろうか。

経済人、政治家、宗教者、その社会的階層、職務とは関係なく、「不安」は社会に席巻し、人々の言動をコントロールしている。ドイツ語で「不安は最悪のアドバイサー」(Angst ist ein schlechter Ratgeber)という表現があるが、私たちの日々の生活、その活動は「不安」によって誘導され、操作されている面が少なくない。社会はさまざまな「不安」で充満しているから、それがある日、暴発したとしても不思議ではない。

どのような社会保険、災害保険、生命保険に加入したとしても、「不安」は消えない。「人間の宿命」として「不安」を迎え入れ、諦観するしか選択肢がないのかもしれない。

もちろん、「不安」という感情は決してマイナスだけではない。一種の自己保存として人間の原始的反応と受け取ることができる。「不安」のない存在は無意味な冒険で命を失う危険性が高い。「不安」があるから、人は知性的に反応し、安全を求め出すわけだ。ワイルド資本主義社会では「不安」も大きなビジネスとなる。

世界の動きを見ていくと、その原動力が「不安」に基づいているケースが多いのを感じる。難民・移民問題から政治紛争まで、「不安」への対応だ。論理的思考の結果ではなく、愛や利他、連帯から誘発されたものでもない。言動の最大動機は「不安」なのだ。人間は生来、そのような存在か、それとも何かを失ってしまった結果だろうか。

人は「不安」を動機した言動に自然と反発を感じることがあるが、人を無条件に感動させるのはやはり「愛」や「利他心」に基づいた言動だろう。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2018年7月15日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。