ゆとりなきゆとり教育の時代

2018年07月31日 06:00

学校現場は、知識を否定し、話し合いばかりしています。学校教育の現場には、人間(子供)は正解を持っているという無垢な“信仰”があります。年号や公式の暗記はよくないと思いますが、知識じたいを否定してしまうのは、いかがなものかと思ってしまいます。

アクティブラーニングの危険性

たとえば、国語科は、漢字こそはつめこみでやりますが(さすがに漢字の書き方は「話し合い授業」化できなかったようです)、読解はほぼ主人公や周りの登場人物の心情理解に偏っており、いわゆる話の筋を読むような「読解力」は身につけようとしていません。

それよりも、国語科は道徳科と化しています。文章の正確な読解ではなく、「(道徳的に)こうあるべきだ」「こう読むべきだ」という読み方を教え込みます。それは道徳科を補完しているのです。(今年から小学校で授業化された道徳科も、まじめな先生ほどまじめに教えなくてはと、残念なことになっています)

ただでさえ、「好きなことをやりなさい」と言われながらも、教師の許すことしかさせてもらえない子供たちは、強烈なダブルバインドにさらされるでしょう。
これにより生まれる子供たちの思考の歪みは、無視できないものではないかと私は思っています。

知識を否定する学校

つめこみ教育とは言ったものの、未だかつて知育偏重の時代があったでしょうか。しかも、学校はますます「知識」を否定しているように思えます。たしかに公式や年号の丸暗記的なつめこみは、目先の受験対策以上の実益はないかもしれません。けれども、その学校の姿勢は、職業訓練にも必要な「知識じたい」を否定しているように見えます。

知識ではなく思考力だ。アクティブラーニング(正確には「主体的・対話的で深い学び」)を推進する人たち(少なくとも現場の教員)はそう受け取っています。

ふくしま国語塾を主宰している福嶋隆史氏によると、「主体的・対話的で深い学び」は少なくとも以下の構造的限界を抱えていると言います。

【1】時間の限界――時間的制約の影響を強く受ける
【2】評価の限界――個別の評価がきわめて難しくなる
【3】知的な限界――その集団の知的能力の枠を超えられない/教師の知的能力が衰える

連綿と引き継がれる「新学力観」に問題がある

新学力観とは、1989年改訂の学習指導要領で採用された学力観です。だから新しいとも言えません。それは、知識や技能を子供たちにひとしく身につけさせるのではなく、子供たち自らがものを考え、社会の変化に対応できる能力の育成を目指すという考えです。

つまり、「まったくのゼロから解き方を考えさせる」ことを目指します。三角形の面積の公式を発見することに血道をあげ、公式の習熟は「つめこみ(=旧学力観)だからダメ」とした倒錯した価値観が、教育現場をゆがめ、いわゆる「ゆとり世代」の学力低下を招いた原因です(その影響は、じっさいには「ゆとり世代」だけでなく現在にまで連綿とつづきます)。

問題は、「問題を解くことができる」という学習内容の「習熟」を否定した「新学力観」ですが、現在も文科省はその政策をつらぬいているという点にあります。この「新学力観」は、「習熟」よりも「興味・感心・意欲」に重きをおきます。つまり「姿勢が大事」という価値観です。語彙や計算等の習熟は「つめこみ」だから問題だ、という風潮を学校に蔓延させつづけています。

話し合い授業は最高の授業?

「新学力観」とは、具体的には「問題解決学習」であり、「ゼロから解き方を考えさせる」
という聞こえのよい施策ではありました。しかし、これは問題がありました。学力が平均もしくは平均以下の児童生徒に、数学でいう定義を発見せよという難度の高い課題を提示したからです。

また、「練り上げ」と呼ばれる「ディベート」のような学習形態があります。それを見ている保護者などの外部の大人は、子供たちの懸命のやりとりに感動を覚えます。

しかし、テストをすると、九九はおぼえていない、くり上がり・くり下がりはできない、通分・約分はできないという状況になります。「解き方を暗記して繰り返す」のは、「旧学力観」だからです。

テストができているからといって、ほんとうの理解ができているとは限りません。けれども、テストができていなければ、最低限の理解もおぼつかないということは言えると思います(しかも、文科省主導でおこなわれている全国学力状況調査は、その出題内容を年々簡単にすることによって、学力は向上していると評価しているようです)。

「アクティブラーニング」的なるものが公教育を破壊している

たしかに「ゆとり教育」は護送船団方式なので、学力上位層の子供やグローバル社会をめざす子供には、実に物足りないでしょう。けれども、すべての子供に「ディベート」授業のような水準を要求するのは難しいです。

「ゆとり教育」は、地域の社会で生涯働くような多くの子供には、適切な分量だったと思われます。サービス産業の増加に対応するため、「創造的な問題解決能力」よりも学校は、「読み・書き・計算」や「ルールの理解」、「平均的なコミュニケーション能力」をもつ労働者をつくるための勉強をする場にすべきです。公教育はその限界を見据えるべきであり、その「指導方法」も、「教え方」もいま一度吟味しなおすべきです。

現場はまさに、ゆとりのないゆとり教育(主体的・対話的で深い学び)の時代へと突入しているといえます。

中沢 良平(元小学校教諭)

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