コミュ力亡国論:知識否定の時代

2018年08月08日 06:00

現代を生きる若い方たちを見て感心するのは、微妙な差異や共通点を拾いあげて、当意即妙の対応をするということです。この技術は、われわれの世代にはなく、まさに脱帽です。

ただし、気になることがあって、それはひじょうに同質性が高いということです。それは近年採用された若手の教員の方と話しているとことさら感じます。

若い教員はコミュニケーションに特化

学校の教員はとくに純粋な日本人の新卒が大多数で純粋培養です。社会人(学校業界では、慣例的に民間企業や他の業種から転職してきた人たちをこう呼びます。自分たちは社会人ではないのでしょうか)を経験して奉職する人は今でもごく一部です。

教員がこのようなひじょうに同質性の高い集団で、これからの子供たちの多様化に対応できるのか、懐疑的になります。そして、文科省や教委からの締め付けによって、学校ではグローバル化や多様性と逆向きの、極端な同質化がおこっています。

若い教員の方たちは、いわゆる「ゆとり世代」で、彼らが学齢期のころは、われわれもコミュニケーション力重視で教えてきました。

教委のトップもコミュ力重視の知識否定

K市の研修センター所長の講話なんかを聞いていても、「これからは知識だけではダメで、不快な思いをさせない思いやりがないと生き残っていけない」とか話していましたが、これは多様性の観点から見ると、かんぜんに逆コースです。ほんとうのコミュニケーションは軋轢の中で生まれるでしょうし、グローバル化や多様化は、その摩擦といかに折り合いをつけられるかというのが現代というものではないでしょうか。びっくりしてしまいます。

とくに、今どきの若い方たちは、密なコミュニケーションがとれない人を排除する傾向があります。これは学校時代のスクールカーストのなごりでしょうか。社会人になっても自分もカースト下位に排除されないように、遮二無二コミュニケーションをとることになります。

ゆとり教育はコミュニケーション偏重教育で、これの原因とまでは言わないが、助長した面があります。英語が流暢な人も増えていますが、どちらかというとひじょうに内向きな人も増えた印象があります。これもコミュニケーション偏重教育が原因のひとつではないでしょうか。

コミュ力重視教育の限界

コミュニケーション重視の「話し合い授業(アクティブラーニング)」では、児童生徒の中からしか答えが出てきません。そうやって、われわれ学校教員は、教育内容の責任を子供たちに丸投げしてきました。今一度、学力とはなにか、知識の大切さを確認する必要があると思います。

教員も「ゆとり教育」でコミュニケーション偏重世代が大多数になりました。若い教員の間でも、学問の知識や実社会の経験よりも、当意即妙なコミュニケーションが重視される傾向があります。

たしかにコミュニケーションの能力が上がることはよいことです。けれども、その一方で、知識や経験を伝えるということが「旧い学力観」ということで、おざなりにされてきました。われわれ年配の教員たちがコミュニケーション偏重の人材を育ててきたのです。そこはおおいに反省しなくてはなりません。

うち内のコミュニケーションは軋轢がなく快適ですが、知識(科学技術)軽視の姿勢は日本の国力の根幹を揺るがします。そこから旧来の殻を破るような新しいものは出てこないでしょう。

中沢 良平(元小学校教諭)

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