1978年には3人の「法王」がいた

アルプスの小国オーストリアは目下、暑い日々が続いているが、当然のことだが、隣国イタリアも暑いという。蒸し暑い日々は気分も優れなくなるものだ。そこで気分を一新するためにローマのバチカンから流れてきた小ニュースを紹介する。「1978年は3人のローマ法王が存在した歴史的な年だった」という。今年はその40周年を迎えたのだ。

バチカン法王庁の夕景(2011年4月、撮影)

ドイツ人ローマ法王ベネディクト16世(在位2005~13年)が突然、生前退任を表明し、その後継者に南米出身のフランシスコ法王がコンクラーベ(法王選出会)で選ばれたことから、前法王と現法王の2人のローマ法王がバチカンで生活するという異例の状況が生まれたことはご存知だろう。

幸い、バチカン庭園内にあるマーテル・エクレジエ修道院で隠居生活するベネディクト16世とフランシスコ法王の2人の法王の関係は悪くない。一部、メディアで報じられるような、前法王と現法王の権力争いといったことは起きていない。フランシスコ法王は機会ある度に前法王に会いに行くなど前法王に気を使っている。

ところで、1978年8月6日、パウロ6世(在位1963~1978 年)が病死した。同法王は1965年にヨハネ23世(在位1958年10月~63年6月)が始めた教会の近代化を決定した第2バチカン公会議を無事閉幕させたローマ法王として知られている。

同6世の死後、コンクラーベが招集された。ローマは当時、今年の夏のように暑かった。外部から遮断された部屋で集まった枢機卿は文字通り「くたばってしまった」(バチカン・ニュース)ほどだったという。

そしてヨハネ・パウロ1世(在位1978年8月26日~1978年9月28日)が選出されたが、そのイタリア出身の法王の在位期間は33日間で終わった。

同法王が選出された時、教会内外で歓迎の声があったいう。笑顔が絶えず、“笑う法王”と呼ばれて信者たちからも慕われた。その法王が急死したというニュースが流れた時、多くの信者たちは「毒殺されたのではないか」と疑ったほどだ。

新法王がバチカン銀行の刷新を計画していたことから、イタリアのマフィアや銀行の改革を望まない一部の高位聖職者から暗殺されたという説だ。十分な検死も行われなかったことから、証拠隠滅という批判の声もあった。米国のデビット・ヤロプ氏はその著書『神の名のもとで』の中で「ヨハネ・パウロ1世は毒殺された」と主張したほどだ。

実際は、ヨハネ・パウロ1世は法王就任前から「心臓病に悩まされているから、長時間の激務には耐えられない」と語っていたというから、心臓病による病死だった可能性が濃厚だ。

そこで同年、コンクラーベが再び開催され、400年以上ぶりに、イタリア人以外の出身枢機卿、ポーランドからヨハネ・パウロ2世(在位1978~2005年)が選ばれた。

コンクラーベでは当時、改革派と保守派が拮抗していた。そこで妥協が図られたわけだ。重要な点は、ヨハネ・パウロ1世のような事態を防止するため、若くて強靭な体力の持ち主が求められた。ヨハネ・パウロ2世は法王選出時に58歳だった。

興味深い点は、旧ソ連最後の大統領ミハイル・ゴルバチョフ氏(1931年~)がソ連共産党書記長に就任した時は54歳だった。チェルネンコのような病持ちの指導者が続いていたソ連共産党はとにかく若く、健康な共産党書記長を願っていた。すなわち、無神論国家の旧ソ連でゴルバチョフが、その少し前、ローマ・カトリック教会の総本山バチカンでヨハネ・パウロ2世が、若く健康という2つの条件を満たし、それぞれトップに選出されたわけだ。

このようにして、1978年にパウロ6世、ヨハネ・パウロ1世、そしてヨハネ・パウロ2世の3人のローマ法王が現れ、消えていった年だった。

ところで、ベネディクト16世が法王に選出された時、コンクラーベでは「ヨハネ・パウロ2世のような若い法王を選出すれば、再び長期政権となるかもしれない」という懸念の声が強く、「次期法王は高齢の枢機卿から選ぶ」というコンセンサスがあったという。ベネディクト16世は法王に選出された時、既に78歳だった。この長期政権防止はフランシスコ法王を選ぶ時も機能していた。フランシスコは選出時には既に76歳だった。

バチカンでは、27年間の長期政権を誇ったヨハネ・パウロ2世を崇拝し、聖人にまで奉っているが、「ヨハネ・パウロ2世のような長期政権はもうコリゴリだ」というのが多くの枢機卿たちの本音のようだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2018年8月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。