安楽死の制度化を提案する①長寿より幸福の追求を --- 村川 浩志

2018年09月03日 06:01

先日、2040年度の社会保障給付費が190兆円に達するという推計が発表された。2018年度の121兆円の1.5倍以上という数字である。これは社会保障の仕組みを根本から見直していく必要があるのではないだろうか。

安楽死を認めるべきではないか

安楽死を財政再建の手段として捉えることはあまり好まれることではないかもしれないが、寿命を延ばすことによってここまで財政が悪化している以上、逆に寿命を短くすることも考えざるを得ない。二宮尊徳も「道徳なき経済は罪悪であり、経済なき道徳は戯言である」という言葉を残している。

戯言で済ませているならいいのだが、「経済なき道徳」を実際に大規模に実行してしまっている結果が現在の日本の財政の姿なのではないだろうか。それも、将来世代に巨大な借金を先送りして、その分、皆で楽をして幸福な生活をしているならまだ意義があるのだが、現実には介護や税金や人手不足などで苦労している人が多いというのが高齢社会の実情である。

一方で、「道徳なき経済」を行えば、それは「罪悪」となってしまうわけなので、安楽死を認めることが道徳的に正しいのかどうか、正しいと言えるのはどのようなケースか、ということは十分に考慮されなければならない。まず、基本的に本人が安楽死を希望していることが前提であるというのは間違いのないところだろう。その上で、どのような人に安楽死を認めるかということになる。

いろいろな線引きが考えられるが、私は介護期間に入ったら、つまり、健康寿命が尽きて自力で日常生活の動作ができなくなった段階というのが一つの大きな区切りとなると考えている。言わば、他人のエネルギーを使わないと生きていけない、自分自身の中には生命を維持できるだけのエネルギーがなくなってしまった状態と言える。老いによる衰えは傾向としては進行していくので、認知症や病気などによりQOLは低下していく。

また、生き続けるために供与してもらわなければならないエネルギー量はだんだんと多くなっていく。ありていに言ってしまえば、「経済」的には子育て・教育など他に有効利用されるべきお金や労働力を、雪だるま式に吸い取って逝ってしまうのである。

情や倫理観も尊重した上での提起

単純に合理主義的、あるいは種族の繁栄というような考え方からすると、集団はこのような個人をわざわざ助けたりしないわけで、老い衰えて自力で生きられなくなった時点で死んで終わりというのが自然の摂理である。しかし、そう単純に行かないところが人間のすばらしいところだ。「情」や「倫理観」によって「本来終わるはずの命を続かせる」のである。もちろんこれはこれで尊重しなければならない。

しかし、先ほど書いたような老いの特性から言って、生きていることがつらい、自分のためにエネルギーを使ってくれなくていいという人まで命を続かせるというのは大きなお世話というものではないだろうか。「本来終わっているはずの命を終わらせる」という側の「情」や「倫理観」も当然尊重されるべきである。

また、「他人に迷惑を掛けたくない」という矜持を持つ人にとっては、家族や社会に雪だるま式に負担を掛けて人生の最期を迎えざるを得ないというのは非常に不幸なことではないだろうか。「負担を掛けたくないから安楽死したい」というのは利他的行為であり、通常の道徳の世界から考えれば、「負担を掛けてでも寿命を延ばしたい」というより高く評価されそうなものである。

安楽死合法化賛成の世論と国の制度のかい離

しかし、現実のところ、日本では安楽死という選択肢は認められておらず、寿命を延ばすことだけが行われているという逆転現象が起きている。それはそれだけ人の生命は尊いということなのかもしれない。

もちろん、それが国民の総意というならば構わないのだが、実際、今の日本の世論はどうだろうか。橘玲氏が「みんなの介護」で書いている記事によると、2010年の朝日新聞の世論調査では74%が安楽死の合法化に賛成している。また、その記事のコメント欄には400以上のコメントが寄せられているが、9割以上は安楽死制度に賛成するコメントである。人生の終え方という重大問題において国の制度と国民の意識に大きなかい離があるとすれば深刻な事態である。もちろん慎重な検討は必要だが、早急な対応が求められるのはないか。

このようなかい離が生じたのは、昔は成立していた長寿=幸福の構図が成り立たなくなっていることが原因と思われる。医学の進歩によって、現在では介護期間まで到達することが当たり前のこととなり、また介護を受けるようになってからの寿命も延びている。それによって、むしろ不幸の側面が目立つようになってきているのだが、安楽死の問題はタブー視される傾向が強いため議論が進まず、対応が遅れてしまっているのであろう。

長寿から幸福の追求へ:自分で決める制度を

そのような観点からすると、今まで縷々述べてきたことは「長寿を追求する医療から幸福を追求する医療への転換」と捉えることもできる。具体例で言うと、仮に働き盛りの人が病気になって安楽死を望んだとしても、病気を治してまた働いて貢献してもらったほうが社会の幸福に資するし、本人にとってもこれから先の長い人生にまだまだ幸福の可能性がいくらでもあるわけなので、安楽死は認められない。あるいは、介護期間に入っている高齢者が安楽死を望めば、それは本人の幸福・社会の幸福、どちらの観点から見ても望ましいことだから安楽死を認める、というような考え方である。

いずれにせよ、経済・道徳という両面から言っても、あるいは国民のニーズという観点から言っても、早急に何らかの「自己決定制度」の制定が必要だと思われる。

私の考える具体的な制度設計は、

「安楽死予備登録書面」

「安楽死による社会保障費抑制分還付契約締結書面」

「安楽死不可能化書面」

の3通りの申請フォームを作るというものである。

「予備登録書面」についてはごく簡単に書いておくにとどめるが、おおむね以下のようなものになる。

≪安楽死予備登録書面≫

この書面を提出することによって、介護期間において自分の望む時期に意思表示をして安楽死することができます。ここでの介護期間とは健康寿命が尽きて以降を指します。

問:認知症の症状が進行すると理解力や判断力が落ちるので、安楽死を希望するとも希望しないとも意思表示ができないというケースが考えられます。そのような場合、安楽死を希望しますか。
1.希望しない。
2.希望する。
3.2.にその他、必要な条件を付加する。チェックを入れた条件が満たされなければ安楽死は実行されません。選択肢:寝たきり、要介護1〜5等

(つづく)

村川 浩志(むらかわ ひろし)ライター
大学卒業後、出版関連会社に勤務し、執筆・編集業務に携わる。政治、社会保障の分野に関心を持ち、執筆活動を行う。

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