ニュースキャスターの皆さん、合格率の平等が男女平等ですか?

2018年09月07日 06:00

顔をしかめるニュースキャスター

「男子優位の由々しき事態です」とばかりに眉をひそめてニュースを読み上げるキャスターたち。話題は、女子への不利な得点操作が判明した東京医科大学の入試不正問題である。

不正について擁護の余地はないが、ニュース報道が男女間の合格率の差という結果にフォーカスを当てすぎているように感じる方は少なくないのではないだろうか。

「医学部は男子有利か 約8割で合格率が女子を上回る」と伝える報道(Abemaニュースより:編集部)

「文科省による過去6年間の調査で、男子の合格率が女子の1.18倍もあったことが公表されました」と巧みに抑揚をつけ視聴者に伝えんとする饒舌なニュースキャスターたちのしかめっ面の影響力は、「男女の合格率が同一結果とならない限り男女平等ではないのかも知れない」と思わされるほどといっても過言ではないだろう。

切れ味の良すぎる武器

もちろん、男女平等自体に異論はない。女性に限らず多様な個人が活躍できる社会は魅力的である。しかし、それは男女の合格率が1:1になることを指すのだろうか。

男女平等という使い勝手の良いスローガンは、時に切れ味が良すぎる。プロセスを見ず結果だけを見て不平等だと異議申し立てを唱えることが、この武器をもってすれば容易に可能となってしまうのである。

もうひとつの平等

平等にも色々ある。よく言われるのは「機会の平等」と「結果の平等」である。かつて、全日本少年サッカー大会に女子選手は出場できなかったが、これは機会の不平等である。一方、徒競走の上位に女子ランナーがランクインしない場合は結果の不平等である。

つまり、平等には、スタートラインを揃え競争を促す「機会の平等」と、ゴールラインを揃え福祉を整える「結果の平等」とがある。

しかし、平等の種類はこれだけではない。もうひとつの平等がある。「過程の平等」である。徒競走の例で言えば、女子の走るコースだけが不利な状態になっていないか等である。過程の平等が担保されなければ、いくら入口の機会が用意されても、出口の評価が一律でも、必然的に「不正な結果」となるだろう。

不正な結果と不揃いな結果

教育界では、かつて、運動会での「手つなぎゴール」が悪しき平等教育だとして批判の対象となったことがある。競争を極端に毛嫌いし、「結果の平等」を求めた一例である。今回の東京医科大学のニュースは、入試に関する「不正な結果」についてであり、それ自体は決して許されるものではない。

しかし、男女の合格率の差ばかりが取り上げられることを見るにつけ、どこか「不揃いな結果」が問題視され、問題がすり替えられているように感じるのである。

機会が平等であり、過程も平等であれば、結果が不揃いになることは十分に考えられる。同じスタートラインに立ち、同じルールや条件下で真剣勝負をしたならば、誰が勝つかは不確実だからだ。

私は大学の就職課として、企業の人事担当者からこんなリアルをしばしば聞かされる。それは、「新卒採用の面接では、傾向として、男子よりも女子の方がハキハキしていて良く見えます。」である。

これに対して、「女子優位は不平等だから男子に下駄を履かせてくれ」とは微塵も思わない。なぜなら、男子にもエントリーの機会は与えられており、差別されることなく面接という勝負の場に自由に参加できているからである。その上での正当な評価は、たとえ不揃いであっても真摯にお受けせねばならない。

結果よりも機会

「不正な結果」は問題であるが、「不揃いな結果」は、それ自体が問題にはならない。企業における女性管理職比率や国会における女性議員比率も同様である。女性の数が少ないことは点検必要性のシグナルにはなっても、それ自体が問題だとは断定できない。

問題になるのは、機会が不平等である場合か、機会が平等でもその後の過程が不平等である場合である。それらの点検を抜きに結果の平等を求めれば、今度は女子優位を容認することとなり、男女平等は未達のままとなる。「不揃いな結果」を見て「結果の平等」を求めるのは早計である。

女性の社会進出に大きく貢献した法律の名前が「男女雇用機会均等法(1986年施行)」であることの意義は小さくない。

高部 大問

高部 大問(たかべ だいもん) 多摩大学 事務職員
大学職員として、学生との共同企画を通じたキャリア支援を展開。本業の傍ら、学校講演、患者の会、新聞寄稿、起業家支援などの活動を行う。

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