東大のグローバル化?英語試験は誰のためのものか

2018年09月13日 06:01

安西祐一郎氏の東大入試における英語試験に関する議論が、SNS上でにわかに話題になっているようですが、この機にそもそも「英語試験」というのは誰の為のものなのか、改めて考えてみます。

まず、上述のリンク先記事において安西氏が提起する問題とは、東京大学が学部課程の入学試験において民間の英語試験を活用するべきかどうかという議論に際し、東大のワークンググループ(WG)側が「活用しないを最優先」とする答申を出したことです。安西氏はこれを東大WGの「時代遅れの国内ローカル」入試方法への固執と見て批判し、「多額の税金が注入」されている「国家のため」の「国策大学」である東大は「世界に通用する」方法で入学者選抜を行うべきだと提言しておられます。

これに対し、SNS上では東大擁護論も色々と出ておりますが、私が今回焦点を当てたいのは東大云々という天下国家の大きな話ではなく、そもそも「英語試験」というのはどのような目的で、誰のために行われるものなのかという点です。

日本では様々な「英語試験」が行われています。まずETSのTOEICやTOEFLをはじめ、British Councilが管轄するIELTSや、日本英語検定協会の実用英語技能検定(英検)などの「民間」試験があります。学校や大学入試で課される英語科目の試験も、それ自体として英語能力に関する資格認定機能はありませんが一応英語試験と言えます。これらの英語試験は、しかしそれぞれ目的が微妙に異なっています。

例えば、日本で最も有名な英語試験であるTOEICの目的は主に「ビジネス」の文脈で使う英語に関する習熟度を試す試験とされており、CEFR(ヨーロッパ共通参照枠、異なるヨーロッパ系言語における語学能力を下から順にA1, A2, B1, B2, C1, C2の六段階に分け共通の枠組みで評価する)でA1〜C1以下の幅で受験者の能力を測ります。TOEICが具体的にどのような役に立つのかについて私は詳しく知りませんが、現状では主に企業によって新卒採用や昇進等の際の人事評価の一つの基準として使われているようです。

実用英語技能検定(英検)の場合もTOEIC同様にA1〜C1の幅で級を分けており、最高級である1級がB2+〜C1程度に対応するようにつくられていますが、こちらは「ビジネス」に文脈を限らない、より一般的な英語能力を試すものです。日本や一部の海外大学では英検を英語力証明資格として認定している学校もあるほどですので、特に準一級以上に関しては比較的学術的な能力も問われます。

ETSのTOEFLやBritish CouncilのIELTS(general)の場合は、「学術英語」に関する習熟度を試すもので、主に英語圏への留学生に受験させることを想定してつくられています。それ故か、TOEFLやIELTS(general)はCEFRにおける最高レベルのC2まで測れることになっています。つまり、理論的には英検1級やTOEICで満点を取ってもC1レベル認定までしか受けられませんが、TOEFLやIELTS(general)で一定以上の点数をとればC2レベル認定を受けられるということです。

言うまでもありませんが、CEFRとは無関係につくられている日本の学校教育課程における英語試験あるいは入試の英語試験では、CEFRレベル認定は受けられません。

ただ、例えば今回話題となっている東京大学学部入試における英語試験において8割以上(120点満点中96点以上)とれるのであれば、少なくとも読み書きに関してはB1-B2に相当する実力が認められて良いと思われます。(実際、受験生の間ではこのレベルの得点を取れるのはほぼ長期海外滞在経験者に限られると言われています。)とはいえ、東大入試では単に一般的な英語力のみが問われているのではなく、学術的な文章の読解力や翻訳力も問われているので、必ずしも純粋な英語力と東大入試における得点が比例するわけではないでしょう。

以上のように、ひと口に「英語試験」と言ってもそこで測られている能力は実は試験によって微妙に差があります。とすれば、一般的な「英語力」という唯一絶対の能力値を測ることの出来る「万能の英語試験」などというのは実在しない幻想の産物であり、実在する英語試験に関しては目的別に使い分ける必要があるということです。

従って我々が英語試験を受ける際に考えるべきなのは、「そもそも自分は誰に向かってどんな能力を証明しようとしているのか」、という点です。否、これは何も英語試験に限らず、およそあらゆる種類の「試験」を受ける際に考えるべきことであるかもしれません。試験をつくっているのも採点するのも神ではなく、そこで測られているのは(「ポケモン」シリーズにおける「個体値)のような)絶対不変の「基本(潜在」能力値」のようなものではありません。それはむしろ「努力値」などの可変要素を含む、特定の目的に沿った特定時点での「総合評価」であり、人間の実施するいかなる試験も絶対的な優劣を決する最後の審判の場ではあり得ません。

であれば、東大入試における「英語試験」を「グローバル水準」に高める、という作為は、一体どういう目的を持つ、誰のためのものであり得るのか。安西氏の提起する問題について議論するに際しては、まずこれを考えねばならないのではないでしょうか。

もし東大入試の英語が「グローバル水準」になったら?

試みに仮説シナリオを提示して擱筆とします。

もし仮に東大の英語試験があらゆる意味で「グローバル水準」になったと仮定し、かつこの英語試験において一定の水準に達しないものは他の科目の出来具合に関わらず東大に入学できない、ということになったと想定してみましょう。つまり、東大が「センター試験」ではなく「グローバル英語力」によって「足切り」をするようになったということです。

そうすると、入学希望者が何名であろうと、また誰であろうと、実際にこの「足切り」を突破できるのは長期海外滞在経験者(所謂「帰国子女」ですが、帰国していない者を含むために強いてこう呼びます)か、外国籍を持つ英語母語話者やそれに準ずる多言語話者等に限られます。その時点で、東大の「グローバル化」は一挙に進むでしょう。

それはつまり、東大がまさにシンガポール国立大や香港大のような、「日本のグローバル大学」というよりもむしろ「東アジアのグローバル大学」の一つとなるということであり、加えて今よりもさらに理工系や商経済系に偏重した、「実用性」の高い学部を中心とする学校へと変わっていくということを暗に示唆するかもしれません。

そして現実的に考えれば、その便益を受けるのは日本で「税金」を払う「日本人」の学生では必ずしもなく、むしろ大多数は英語を話す世界各国から来る学生達でしょう。するとこの集団から排除された「普通の日本人」は早晩この構図を批判し新たな「東大批判」が噴出するでしょうが、此の期に及んでは最早この種の「東大批判」は粗野な「人種差別主義」として国際的に一蹴され、解消され得ぬ不満を抱える人々の怨念と彼らを邪悪な敵として蔑むエリートの憎悪によって、日本国内においても西欧に見られるような「国民間の断絶」が急速に進行するかもしれません。

その代わり、東大で学んだ学生達は世界各国のグローバル企業等へ飛んで行って活躍し、東大もその「国際大学ランキング」の地位を大幅に向上させるでしょう。シンガポール国立大や香港大と同様に、新たな時代に順応する先端大学として世界の財界から賞賛されるでしょう。しかしそれは、誰のための変化でしょうか。何のための変化でしょうか。

結局「英語試験」は、誰のためにあるのでしょうか。このことをよくよく思案した上で下された決定なら、私はそれを興味深く観察するのみですが、何の思慮もなく決定された政策は、意図せぬ弊害の種となり得ます。東大WGが懸念するのは、畢竟そういったことなのではないでしょうか。

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