近代の漢字文化圏の中心は中国でなく日本だった

八幡 和郎

東アジアは漢字文化圏だと思っている人が多いと思う。しかし、モンゴル、満州、突厥(トルコ)、鮮卑、契丹などは独自の文字を発明し北方的な文法をもつ自分たちの言語を書き言葉にした。

そのあたりは、『中国と日本がわかる最強の中国史』 (扶桑社新書) でも詳しく分析したのだが、その起源は、イエス・キリストも話していたアラム語の文字(ルーツはフェニキア文字)が、ペルシャ系のソグド族を経由して突厥文字(トルコ語の起源)が発明され、これが、モンゴル文字や満州文字に発展したものだ。

タイやチベットの人々は中国語と似た言葉を話すが、文字はインドに由来する表音文字を使っている。そして、朝鮮半島の人々は北方系の言葉を話すが、日本統治時代ごろまでは書き言葉は成立せずに中国語を使っていた。

日本やベトナムは漢字と独自の文字の混合で自分たちの言語を表現した。朝鮮では、書き言葉としては、ほどんど中国語だけを使っていたが、日本人の努力で漢字ハングル混ざり文が成立した。

漢字伝来以前に日本独自の文字があったのではないかという説もあるが、立証されたとはいえない。日本にいつ漢字が伝来したかといえば、中国からの渡来民は古くからいたのでまったく伝わらなかったわけでないが、社会にそれを使用するに至らなかったので、渡来人も世代が変わると忘れた。在日朝鮮人の2世や3世のほとんどが日本語しかできないのと同じ。

4世紀ごろから限定的に使用が始まったが、このころは、漢人系の渡来人に文書作成が必要なら任せていた。そして、7世紀の聖徳太子のころから日本人にも読み書きが普及し始め、それが普及したところで律令制が成立した。

遣唐使の時代には、怒濤のように中国文明が入ってきたが、やがて、遣唐使の派遣も帰化人の渡来もなくなり、漢字文化も日本独自で発展するようになった。その結果として、古い中国語の読み方などが日本には残っている。

近代になると、西洋文明については、日本がまず先に高度な受容を行い、中国やほかのアジア諸国は日本から間接的に輸入した。それは、中華人民共和国という国名のうち「人民」と「共和国」が和製漢語であることに象徴的に示されている。

日本語も実は、文明開化の時代に、欧米の考え方を翻訳するのに向いたようにかなり変質し、また、膨大な和製漢語を創り出した。

中国は「中体西用」とかいって、文明開化を拒否して実用的なものだけを採り入れようとしたので、この流れに遅れ、ようやく日清戦争ののちに、日本に膨大な留学生を送って、日本化された西洋文明を採り入れ、そのために、単語に留まらず言語そのものが大きな変質を遂げた。それは、日本で学んだ魯迅が言語改良運動のリーダーだったことに象徴されている。

以上のような意味に於いて、日本と中国の関係はイギリスとヨーロッパに似ているともいえる。イギリスは大陸諸国から大きな影響を受けて、たとえば、英語の単語の6割以上がフランス語由来である。

しかし、だからといって、アングロサクソンの文化が下位にあるわけでもない。大陸文明を独自に発展させたり、大陸では失われた中世的な伝統とか、ヨーロッパの先住民であるケルトの文化をより濃厚に残している面もある。

また、アメリカ文明をヨーロッパに輸入する窓口になっている。そうした意味で、イギリスが大陸諸国の衛星国とはいえないのと同じように、文化的な意味置いても日本を中国の衛星国とみるのはおかしなことだ。

私は日本人やその文明の独自性を過度に強調するのも、中国文明の一部のように理解するのにも反対である。日本人の先祖の大半は、孔子が活躍していたころには現在の中国にいた可能性が強い。そういう、共通のルーツをもちながらも、中国は北方民族の影響を、日本は列島土着の縄文人たちの影響を受けて互いに変容し、また、その後も、互いに影響を与えてあってきたと位置づけるべきだし、また、そう考えるのがもっとも未来指向だ。

中国と日本がわかる最強の中国史 (扶桑社新書)
八幡 和郎
扶桑社
2018-09-04