『新潮45』小川榮太郎氏「触る権利」論騒動の本質

2018年09月20日 06:01

小川氏は何が言いたかったのか

『新潮45』10月号に掲載された小川榮太郎氏の寄稿文が騒動を巻き起こしているようです。特に問題視されているのは、『痴漢が女性を「触る権利」を社会は保証すべきではないか』という文章がそこに含まれていたことです。私も流石にそんな暴論が雑誌に堂々と出てくるとは思わなかったので、真相を確かめる為に『新潮45』10月号の当該箇所を確認しました。

結論から述べるならば、小川氏の議論は「触る権利」を保証しろという提言を主眼としたものではありませんでした。むしろ、本来小川氏が意図していたことは、敢えて私の解釈を通した上で整理するならば:

1. もし「LGBTの権利を認めろ」という主張を支える論理(=そう生まれついてしまったのだから、どうしようもないような性的嗜好は尊重されねばならない)を認めるなら、その同じ論理から「痴漢の触る権利を認めろ」という主張を導くことができる(for reductio)

2. だが、「痴漢の触る権利を認めろ」という主張は認められない。(何故なら、痴漢の「触る権利」は女性の「触られない権利」に抵触するからである。)

3. 故に、「LGBTの権利を認めろ」という主張も、ただ単にそれが生まれつきの性的嗜好であるからというだけで必ず認めなければならないものではない。すなわち、「LGBTの権利」は、それがあくまで他の人の権利を侵害しない限りでのみ認められるべきである。

という、所謂reductio ad absurdum(帰謬法)を利用した議論を展開することを意図したものであるように読めました。

ただ、小川氏の側に非があるとすれば、まず氏がここで展開している議論はあくまでreductioであるということが誰にでもわかるように明示されているとは言えない点です。ここを明示的に示しておかないと、あたかも小川氏が本気でreductioの議論を自分の意見として主張しているかのように読んでしまう人も出てきてしまい、実際にネットではそのreductioの部分だけが引用され「小川氏は痴漢を正当化している」という批判が噴出してしまっています。

それが明らかに不当な批判であると言えるようにする為には、やはりこの部分に関しては「reductio」である、つまり帰謬の為の否定されるべき極論であるということを予め明示しておくべきだったのでしょう。

もっとも、だからといって果たしてこの小川氏の議論がreductioとして成立しているかどうか、という点に批判の余地が残ることは否定されません。

例えば、私の上述の整理に従うならば、痴漢の「触る権利」が認められないのは、それが誰かにとって主観的に「気持ち悪い」からではなく、女性の「触られない権利」、もっといえば「心身の健康を侵害されない権利」に抵触するからです。これに対し、LGBTの場合は誰の権利も侵害していないのに、主観的に「気持ち悪い」というだけの理由で認められていないのだとすれば、これは不当な差別ではないか、というのがLGBT擁護論の基本的論理ではないでしょうか。

従って、仮に痴漢とLGBTは共に「逸脱的性的嗜好」であるとしても、それが認められない理由において質的に異なっているということが言えます。故に上の帰謬論によってはLGBTの権利は否定されない、という批判が成り立つでしょう。

他方、これに対する反論として、例えば同性婚カップルに育てられる「こども」の権利を侵害すると認められる限りにおいて、仮に同性婚そのものは認められるとしても、同性婚カップルがこどもの養育者となる権利は認めるべきではない、という議論は有り得るかもしれません。

また、これを前提として婚姻関係が伴う民法上や税制上の権利の趣旨に鑑み、同性婚カップルには異性婚カップルに現行法で認めている権利を認める社会的利益があるとは認められない、従ってこれを認めることに十分な公益性があるかどうかは疑わしい、という議論も一応有り得るかもしれません。

このいずれの主張を正当化するにしても非常に繊細な議論が必要であり、かつその詳細は本稿の本題とは関係ないのでこれ以上深入りすることは避けますが、およそ「権利」に関する議論というのは、それに関わる関係者それぞれの権利の複雑な絡み合いを慎重かつ丁寧に検討しなければならないということは、以上の簡単な紹介程度の議論でも明らかになったと思います。

従って、小川氏の論考の欠点は、そういった権利関係の複雑性を議論の焦点にせず、保守派が伝統的に大切にしているとされる価値観や権利がいかにLGBT擁護論によって維持しがたくなっているかについて説得的な議論を展開しなかったこと、そしてLGBT擁護論に対する反論としてさほど有効でもない帰謬論を使って、徒らに読者の道徳感情を逆撫でし、保守派の議論の質や雑誌編集部の見識をすら疑わせてしまうような事態を結果として招いてしまったある種の軽率さにあると言えるのではないでしょうか。

「売れ筋」に囚われたメディア業界の病

特に、『保守派の中には「痴漢にも触る権利がある」と考えている人がいる』という印象を抱かせてしまったことは、「印象」がモノを言う日本の政治世界においては極めて重大な失態であったと判断せざるを得ません。仮にそれが誤解や誤読に基づいているのであったとしても、だからといって読者の理解力不足を嘲笑し高踏的に構えているだけでは、誤解は解けぬまま「悪印象」だけが現実に影響力を及ぼし続けてしまう。

「言論の自由」は結構ですが、今回の件をきっかけに日本の言論世界で重宝されている「知識人」や「言論人」の質あるいは選出方法に関して、一般読者は大きな疑問を抱いたことでしょう。そういったところに、これまで散々知的誠実さをないがしろにし、「売れる」文章を量産してきた日本のメディア業界の末期症状を見る思いがするのは最早私だけではないはずです。

また、これは「保守」「革新」「右翼」「左翼」「リベラル」等といったイデオロギー次元の対立の問題ですらありません。

戦後日本の商業メディアは、一見戦前のような言論統制から自由なようで、実際には「より売れるもの」を求めるあまり言論界の「大御所」や大衆迎合的な言論人ばかりを重用し、既定路線外の新人等を冷遇するという事実上の「資本の論理に基づくフィルター」をかけてきたように思われます。

その結果、本当は無数に存在するはずの「正論」がメディア上にはなかなか上がらず、極端に偏った主張ばかりが跳梁跋扈し、アカデミアに近い「良心的知識人」達もそういった極論ばかりに批判の眼を向け、さもそれが「大衆」を代表しているかの如くに考えて「日本の大衆」全体を必要以上に侮蔑してきたのではないでしょうか。

そして、それが延いては海外の「日本叩き」にも貢献する。そうだとすると、人知れず真っ当に思考している無名の日本国民一人一人があまりに不憫です。

恐らく今回も、既存メディアの大勢としては既に定型として定着してしまった上述のパターンをやはり繰り返すことにはなるでしょう。しかしこれを問題視して解決案を私が提示することは、どうやっても畢竟ポジショントークにしかならないので控えます。

ただ、メディアにおける議論の質を左右するのは結局のところ消費者の動向であるというところまで了解していただければ本稿の目的は十分に果たされたと思いますので、その先は皆さんの賢慮にお任せして擱筆とさせて頂きます。

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