英国学生の間で厳格化する表現規制と『新潮45』の狭間

2018年10月11日 06:00

「思想犯」扱いされた私の友人、アゲロス

The Timesの今年9月21日付の記事の一つに、私のダラム大学時代の同期で友人の名前を見つけ衝撃を受けたのは、既に数週間前のことです。

アゲロス・ソフォクレウス氏(The Timesより:編集部)

彼の名はAngelos Sofocleous(現代ギリシャ語読みで「アゲロス・ソフォクレウス」)。キプロス島出身のギリシャ語話者で、卒業後ロンドンへ移った私とは異なり、現在もダラム大学(於:英国)に残って哲学科修士課程(MA in Philosophy)に在籍しています。

学部時代には「哲学と心理学」(Philosophy and Psychology)というダブルメジャーを専攻しながら、主に哲学関連の課外活動に積極的に参加していました。

他方、彼は性格的には非常に大人しく、どちらかというと柔和な印象を与える方で、基本的には私よりも遥かに温厚で物静かな人物です。そんな彼が、英語圏のtwitter上での所謂「alt-right」系あるいは「表現の自由擁護派」界隈を賑わせている事件の当事者になっていたことに私はまず知人として大変驚きました。

というのも彼は基本的には「リベラル」な立場で、普段から「リベラル派」を敵に回すようなことを平然と言ってのけるような人ではないからです。

その事件の内容というのは、最近の「新潮45」騒動に比べると比較にならないほど些細な「過ち」に端を発するものです。その「過ち」というのは、「女性には男性器がないというのは罪だろうか?(Is it a crime to say ‘women don’t have penises’?)」という記事に「“If women don’t have penises”(もし女性には男性器はないのだとしたら)」というコメントを付けて「リツイート」したことです。

これを見た彼の属する学内哲学サークルのメンバーらが問題視し、結果として彼はそのサークルと関連するダラム大学内の哲学雑誌「Critique」の編集者の地位、および学内オンライン哲学雑誌「The Bubble」編集者の地位を剥奪された、というのが事件の顛末です。

彼の事件を記事にしたのは無論The Timesだけではなく、当然のごとくDailyMailも記事を書いていますが、さすがDailyMailだけあって案の定いい加減なことばかり書いています。

例えばDailyMailは恰も彼がこの件で大学を退学処分になったかのように書いていますが、これに関しては事実無根です。英語圏の大学も流石にこのくらいのことでそこまで過剰な反応はしません。ただ、The Timesの記事にもある通り、Sebastián Sánchez-Schillingという、「Critique」の編集長が「Critiqueはここに喜んでTerfs(トランスジェンダー(女性)排外的な原理主義的フェミニスト/trans-exclusory radical feminist) を容認しないということを宣言する 」と発言していることを考えれば、英語圏の大学の学生間における「大勢」の方向は知れるのではないでしょうか。

他方、この「事件」に一定のメディアの注目が集まった結果、アゲロスが執筆者の一人として名を連ねる「Conatus News」という言論サイト上に彼を支援する哲学科の大学教授らの署名が続々と集まっていることから、少なくともまだ一般社会及び大学の「教授」レベルではより冷静な声もあることが認められるのが、一応の救いです。

またアゲロスはこの件に関して例の「The Spectator」に事の顛末に関する当事者としての所感を寄稿しており、同記事が公開された直後辺りではSpectator内でのアクセス数トップ記事として注目されていたほどでした。英語圏における「表現の自由」は、このように「瀬戸際」をせめぎ合うような形で実践において常に試され続けているのです。

アゲロスの事件と『新潮45』騒動の狭間で

他方、「西欧では当然のごとく表現の自由が認められているのであり、表現規制論は日本リベラルの詭弁だ」というある種の「西欧理想郷論」が日本の表現の自由擁護派界隈には公然とまかり通っていたりします….というより意見の異なる他者に対して表現の「自主規制」を暗に促すような言説を公にしている言論人でさえ、あまり深く考えることもなく何に関しても『「原則として」言論の自由は認められるが』というような言い方をする人がかなりいるように見受けられます。

ですが、実際の西欧の現実というのは畢竟上述した次第です。そしてそれは今回当事者となったのが私の友人であることからも十分に明らかな通り、私にとっては自分自身に影響の及ぶ可能性が大いにある、身近に差し迫った「問題」なのであり、決して机上の空論ではありません。

そういう環境で一定期間過ごして来た後、例の「小川論文」を目の当たりにした時の衝撃。それは、到底「日本と欧州の文化的懸隔の大きさ」というような言葉で表せるものではありません。小川氏の文体そのものには、何か末期的なものすら感じました。

それでも、西欧において息の詰まるような思いで過ごしてきた後では「こんな言論でさえも存在できる」という事実に逆説的にある種の価値を認めざるを得ませんでした。当然、これは小川氏の主張そのものに客観的価値があるということでは決してありません。

この際はっきり申し上げるなら、小川氏の議論そのものには公論としての価値は皆無に等しいのみならず、実践的には著者自らの名誉を傷つける効果しかないという意味で社会的自殺だと判断せざるを得ないほど誰にとっても得のないものです。とはいえ、小川氏が表現しようとした意見というのは、西欧ではもはや決してお目にかかれない「都市伝説」のような珍品です。

それ故か、著名な知識人の方々も様々な形で「論じるに値しない」と一蹴しているようです。それでも拙稿において敢えて小川氏の議論を「まともに」取り上げて論理的に分析したのは、以下で概説する「真に偏見を克服するためには、偏見は表明されなければならない」という卑見に基づきます。

知性改善の為の「表現の自由」〜まとめに代えて〜

憎悪を含むような表現は、確かに適菜氏の指摘する通り規制されるべき「便所の落書き」なのかもしれません。ですが、「ヘイト規制」の代償として、他者に偏見を持つ人というのが具体的にどういった偏見を、どういった理由で正当化しているのかを知る機会を、そして権利を我々は失うかもしれません。

主流派と異なる「意見」はほとんど表現されず、人がある特定の「偏見」を持つに至る過程もまともに解明されず、ただ「偏見」だけが闇の中に潜り、無言の心理的断絶が生じ、社会が知らぬ間に分断されていく。少なくとも、現代西欧ではそれが現実です。

小川氏の表現によって精神的に傷ついた方は少なくないでしょう。そして小川氏の議論の構造を、その倫理的反価値性を等閑に付して論じる私に怒りを覚えた方さえあるかもしれません。

しかし、偏見の表明を禁止することは、同時に読者の「知る権利」の否定でもあります。もし小川氏が彼の抱懐する意見を公に表明する代わりに、見えない形でその偏見を反映した行動を合法の範囲内で行っていたら、果たしてその方が社会にとって有益だと言えるでしょうか。

また、小川氏にも自分の見解の何がどう具体的に誤っているのかを知る権利がある。私はその権利の行使に微力ながら貢献したつもりですが、偏見というのは正直にあますところなく表明され、その誤りを正面から論理的に(つまり感情抜きに)指摘されない限り解消される見込みのないものだと私は考えます。

そもそも偏見に囚われているのは小川氏のみなのでしょうか。誰しも他人に指摘されなければ気づけない偏見のひとつやふたつ、持っているのが通常ではないでしょうか。それにも関わらず、偏見は表明されなければその存在を知られることさえありません。

規制を恐れるあまり何も意見を言わなくなってしまった人々は偏見を正す機会を失い、故に彼らの知性は決して改善しない。

表現の自由を唱えた最初期の人々の一人である、ベネディクト・デ・スピノーザ(Benedict de Spinoza)が最初に記したのは「知性改善論(Tractatus de Intellectus Emendatione)」でした。

これは偶然ではなく、論理の必然だと私は理解しています。本当に偏見を減らし市民の知性を改善したいのなら、それが表明されるという不快に耐え(tolerate)つづけなければならない。「思想表現」を理由に物理的に殺された知人や友人の無念と共に生きたスピノーザは、「耐えること(tolerance)」に無限の価値があることを誰よりも深く理解していたのではないでしょうか。

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