記者の講演会:異なる言論を排除しあう日本の現状 --- 丸山 貴大

非常に暗く、そして重い講演会であった。

神奈川新聞の松島佳子氏(聖学院大学講演イベントサイトより:編集部)

神奈川新聞湘南支局松島佳子記者が、「時代の正体-取材現場から見た国家権力」と題して講演会を行った。松島記者が紹介した取材現場は、映画『沈黙-立ち上がる慰安婦』を上映した市民会館及び米軍基地のヘリパットが建設されている沖縄県高江の二つだった。

先の大戦における日本の加害責任について取り扱った映画『沈黙』が上映される市民会館に、日本第一党の関係者の男性が入ろうとした際、職員とトラブルになった。職員はその男性が上映を妨害するのではないか、と思い入場を断ったそうだ。その際、男性は自ら転び、警察を呼び、辺りは一時騒然としたそうだ。男性は、上映に関して物申したかったのだろう。具体的には「そのような事実はない」と。

歴史とは、加害者又は被害者という立場によって、語られる内容が誇張されたり矮小化されたりする。故に、その真実性を見極めることは困難を有する。又、当時の資料が無ければ事実確認が客観的に出来ない。

そのような折、インターネット上では、様々な意見が飛び交う。個々人がどのような意見を持とうと自由だ。しかし、そこに差別的発言や脅迫等が相まって、ネット上の言論空間はカオス化、テロル化しがちだ。実際に、上映関係者宅に深夜、いたずら電話がかかってきたそうだ。

健全な言論空間とは何か。それは、排除がないことだ。自らの主張と異なる者や批判の対象者等を言論空間はおろか、この世から排除するかのような言動は断固として認められない。自由とは、零であり無ではない。故に、言論の自由の根幹には、個人を個人として扱う倫理を備えなければ、言論は暴言と化してしまう。開かれた言論空間において、小さいながらにも民主主義が形成、成熟されていく。

畢竟、ある限定された一つの視点から物事を見ていては、差異と多様性に開かれた社会の構築を探求することは難しくなる。報道、とりわけ新聞には各社の主張があり、当然の如く偏りがある。それは、何人も発行できる紙媒体においては許されることだ。しかし、国民の共有財産たる電波を独占しているテレビ報道はそうはいかない。そこには公共性がもたらされ、「政治的に公平であること」(「放送法」第4条第1号)が要求されるのだ。国民の知る権利を損なわないためにも、自分勝手な報道は慎むべきであろう。

さて、そのように考えたとき、本記念講演会が「多様性に開かれた社会を目指して」と標榜しているにも関わらず、読売新聞や産経新聞の記者を招くことが出来なかった又は意図的に招かなかったとすれば、非常に残念極まりない。「多様性」という言葉を実に空虚なものにしてしまうからだ。

松島記者が紹介した二つ目の取材現場は、米軍基地のヘリパットが強行に建設されている沖縄県高江だ。そこでは、国政選挙の民意と沖縄の民意が正面衝突している。基地建設に賛成又は反対の民意が混在する中で、互いに自らの主張を展開するだけで、溝を深めている。米軍基地が嫌ならば日米安全保障条約を破棄すればよい。その際、自衛隊や日本の安全保障をどうするか、国民的な議論をすればよい。又は、沖縄県に一極集中している米軍基地を全国に分散させればよいが、反対は必至だろう。

少なくとも、現状を変えずして米軍基地がどうにかなるわけではない。とは言うものの、現状は変わらず、同じようなことが繰り返されるだけだ。そして今日、基地問題は人権問題をも引き起こしている。事態は悪化の一途を辿るのみで、解決の兆しは見えない。

もっとも、沖縄が日本から独立すればよい、などという話になっては、日本が沖縄をいよいよ見捨てたことになる。日本は、対米従属構造から脱しなければ、沖縄を米国に売り渡す形になる。尖閣諸島やら竹島の問題を声高に叫ぶのであれば、沖縄を何故、救い取り戻さないのだ。戦後の長いながい歴史の中で確立してしまった日米の依存関係を改善又は断ち切ることは、それ相応の時間と労力が必要である。

このような差別や虐めは、我々の身近なところにおいても形を変えて存在している。例えば、大学入試における女性受験者を主な対象とした得点の差し引きがある。医師になる機会を女性から奪おうとすることは、平等権を保障した「日本国憲法」第14条第1項に反し、男女共同参画社会に真っ向から逆行する愚行である。

又、女性記者に対する性的嫌がらせも報じられた。松島記者も、そのような被害に遭われたそうだ。結局、性的嫌がらせはホモソーシャルの延長であり、男性社会がそれを是としてきた。嫌がらせをする方もされる方も、するがまま、されるがままなのだ。故に、「嫌よ嫌よも好きのうち」というエゴイスティックな考えの下、それは社会において公然と認められしまった。しかし、奴隷制や黒人差別が制度上、無くなってきたように、今日、嫌がらせ全般は個人の尊厳を著しく侵害する行為として社会に浸透してきた。

そのような社会を「生きづらい」「世知辛い」と評すること自体、アナクロニズムであり、昭和の匂いを漂わせる。松島記者のモットーでもある「誰もが自分らしく」を実現させるためには、他者を不快な思いにさせる人の「らしさ」、即ち、嫌がらせをする自分らしさは、人権侵害以外の何物でもないのだ。他者の「らしさ」を奪う人の「らしさ」が正当化されようものならば、どうしてそれは正当と言えよう。誰によって正当とされたのか。結局それは、エゴであり、パターナリズムであり、マジョリティの都合やロジックなのだ。それらはまさしく、自由、平等、公平に反するのだ。

丸山 貴大 大学生
1998年(平成10年)埼玉県さいたま市生まれ。幼少期、警察官になりたく、社会のことに関心を持つようになる。高校1年生の冬、小学校の先生が衆議院議員総選挙に出馬したことを契機に、政治に興味を持つ。主たる関心事は、憲法、安全保障である。