人質問題の言説:自己責任ではなく無責任(特別寄稿)

2018年11月21日 06:01

朝日新聞は朝刊のオピニオン面で「耕論」と題した企画を2007年から展開している。「3人の論者が、世の中を深く、複眼で読み、個別のテーマを多層的に考える」(朝日公式サイト)――それが企画の趣旨らしい。

日本記者クラブサイトより:編集部

去る11月20日付朝刊紙面に掲載された「耕論」は題して「冷たい自己責任論」。以下の三名によるインタビュー記事だった。

■「頼らず孤立」強いる社会 村尾政樹さん(公益財団法人「あすのば」事務局長)
■「下」たたき、自己愛満たす 和田秀樹さん(精神科医)
■ 救済には制裁、江戸期から 木下光生さん(奈良大学教授)

最後の見出しは説明を要するであろう。木下教授の記事はこう始まる。

安田純平さんが解放されたとき、「謝れ」との圧力が社会にあると感じる一方で、「政府が邦人を救うのは当然だ」という意識は希薄に見えました。根底にあるのは、困った人への公的救済に冷たい自己責任の価値観でしょう。日本社会の冷たさを改めて映した事件だと思います。/こうした「自己責任社会」の起源はどこにあるのか。(中略)江戸時代の史料を探して実態を調べました。見えてきたのは、日本が当時から自己責任をよしとする社会だったことです。/一般に、江戸時代は相互扶助の社会だった、と言われます。(中略)ただしよく見ると、救済には社会的制裁が伴っていました。

その上で「江戸から明治へ、敗戦を経て今の憲法体制へ、日本社会は大きく変わってきました。ただし、自己責任を基本とする社会である点はあまり変わっていない」と判定し「自己責任の社会を続けるか、公的救済を当たり前とみなす社会へ転換するか。真剣に考え始めるべきでしょう」と結語する。江戸期以降の日本を「自己責任社会」とみなし、全否定する。

他2名の論は略すが、見出しのとおり、どうみても三者三様ではない。本当に「3人の論者が、世の中を深く、複眼で読み、個別のテーマを多層的に考え」た結果なら、こうはなるまい。げんに朝日は「耕論」のリード文でこう自白している。

紛争地取材で窮地に陥ったジャーナリスト、予期せぬ病気や貧困に苦しむ人々……。そこに「自己責任」という言葉が向けられる昨今。日本社会の「冷たさ」を考えてみました。

こうした単眼に陥らず、日本社会に根付いてきた「温かさ」や、「公的救済を当たり前とみなす社会」の弊害をも含め多層的に考えようとした形跡は微塵もない。そもそも「ジャーナリスト」と「予期せぬ病気や貧困に苦しむ人々」を同列で併置する感覚がおかしい。

無用な誤解を避けるために断っておく。私はいわゆる自己責任論に同調するつもりはない。そもそも「自己責任」という言葉が上記のごとく使われだしたのは、2004年のイラク邦人拘束事件を端緒とする。当時の全国紙「社説」を振り返ってみよう。まず読売社説が「自己責任の自覚を欠いた」と人質を批判(4月13日付)。続けて産経が「貫きたい自己責任の原則」と題した「主張」を掲げた(翌14日付)。

他方、朝日社説は「これ以上苦しめるな」と題し、「いま生命を脅かされている人やその家族をあしざまにののしる時だろうか」と、読売や産経の「自己責任」論を牽制した(翌15日付)。ただし、その朝日社説ですら「状況の判断が十分ではなかった。危険を知りつつ自己責任で行ったと言われれば、その通りだろう」と述べていた。今回の事件にも当てはまる認識だと思うが、上記朝日記事にその自覚はみえない。

そもそも「自己責任」とは、いかなる意味なのか。実は、当時の『広辞苑』(岩波書店)にも『国語大辞典』(小学館)にも「自己責任」なる見出し語はなかった。あったのは以下の語釈である。

「各人は、自己の行為についてだけ責任を負い、他人の行為については責任を負わないという近代法の原則。過失責任主義とともに、個人の自由を保障する機能を営んでいる」(『法律学小事典』有斐閣)

それがイラク人質事件を契機に、現在の脈絡で使われ始めた。もはや誤用が定着した感すらある。

2015年、いわゆる「イスラム国」による邦人殺害が報じられた際にも、保守派は「自己責任論」を合唱した。他方、同年1月21日放送のテレビ朝日「報道ステーション」(古舘キャスター)や、翌日のTBS「ニュース23」(岸井キャスター)がそれを批判した。私は「この論点に限り、彼らに同意する」――そう当時の論壇誌に寄稿した。

案外知られていないが、2004年当時、私もイラクで取材し、イラク派遣部隊の初代トップ(番匠幸一郎群長)を独占インタビューした(「文藝春秋」2004年5月号)。日本政府(外務省)は渡航自粛を求めていたが、現地取材を敢行した。NHKが「泥沼化するイラク戦争」と扇情報道していた最中でもあり、準備には万全を期した。通訳に加え民間軍事会社と契約。武装したチームの護衛を受けた。高額の保険に加入し、家族に遺言も残していた。

それでも、無事帰国できたのは幸運にすぎないとの批判は甘受する。それゆえ「冷たい自己責任論」に同調するつもりはないし、そんな資格は私にない。ただ、当時も今回も、こうは思う。……人質となった邦人に向けられるべき言葉は「自己責任」ではなく、むしろ「無責任」ではないだろうか、と。

なお2015年の際にも問題提起したが、蛇足ながら再論したい。保守派なら「冷たい自己責任論」ではなく、こう主張すべきである。

「国民の生命・身体を保護することは国家の責務でもある」

「在外自国民の保護・救出は、国際法上、所在地国が外国人に対する侵害を排除する意思又は能力を持たず、かつ当該外国人の身体、生命に対する重大かつ急迫な侵害があり、ほかに救済の手段がない場合には、自衛権の行使として許容される場合がある」

(安保法制懇報告書・2014年5月15日提出)

だが今回も保守陣営から、そうした“正論”は聞こえてこない。「国民の生命・身体を保護することは国家の責務」と訴えたのは保守派ではなくリベラル左派だった。保守派なのに「国家の責務」を放棄したかに見える。それで、いったい何を守ろうというのか。

人質となった邦人ジャーナリストを「英雄」視したリベラル左派もおかしい。彼らが守るべきは報道および取材の自由であり、批判すべきはその自由を侵す国家権力(政府)であろう。なのに、保守派にかわって「政府が邦人を救うのは当然だ」(木下教授)など、「国家の責務」を熱く語っている。

保守派もリベラル派も、批判すべき対象とその方法を完全に間違えているのではないか。

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潮 匡人
評論家、航空自衛隊OB、アゴラ研究所フェロー

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