「立憲主義を回復させる」必要はあるのか --- 高山 貴男

寄稿

2015年9月に集団的自衛権の限定解禁を容認したいわゆる「安保法制」が可決されてから3年以上が経過した。安保法制反対派は同法を「立憲主義に反する」を理由に反対し国会議事堂周辺には12万人(主催者発表)が集まったとされる*1

この安保法制を巡り「立憲主義」が急速に注目され、それが政治に大きな影響を与えたのは間違いない。とりわけその影響を受けたのが当時、野党第一党だった民主党である。

安保法制可決後、民主党は野党再編により「民進党」になったが2017年9月に内紛により分裂・解党した。

立憲民主党公約集より:編集部

これを受けて当時、民進党所属議員だった枝野幸男氏は新党を結成し党名は「立憲民主党」とした。名称からしても「立憲主義」を重視しているのは明白で党綱領は案の段階では「立憲主義」を「最高の価値」とするほどだった*2

もっとも実際に採択された綱領は「立憲主義を守り~」と落ち着いた表現となっている。

2017年10月に衆議院議員の解散総選挙が行われ立憲民主党の枝野代表は「立憲主義を回復させる」*3を公約とし選挙を戦い、その結果、立憲民主党は野党第一党の地位を獲得した。「立憲主義」は確実に政治を動かしている。

「立憲主義」への違和感

現在でも安全保障、憲法論議では、この「立憲主義」なる言葉は盛んに使用されるが、この言葉はここ数年、急激に使用されるようになった。

池田信夫氏が調査したところ「朝日新聞データベースで調べると、立憲主義という言葉が使われた記事は1985年以降で2221件出てくるが、そのうち1931件が2014年以降である。」*4とされる。

筆者は「立憲主義」について少なくない違和感を覚える。

「憲法は権力を制限するものである。それが立憲主義だ」といった言説が多い。立憲民主党が示す基本政策にも「立憲主義に基づき権力に歯止めをかけて~」と明記されており、この場合「歯止め」と「制限する」は同じ意味と解釈しても良いだろう。

そして問題なのはよく強調される「権力を制限する」についてである。

まず「権力」についてだが、日本国憲法前文によれば

「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」

と明記されている。

権力は実際に行使することでその意義は発揮するのだから権力の行使者が「国民の代表者」ならばやや単純であるが「権力」=「国民の代表者」と読み替えることもできる。

もちろん憲法前文を根拠としなくても我々、国民は国政選挙を通じて国会議員を選出しているので「権力」=「国民の代表者」であることは実感としても理解できよう。

続いて「制限する」についてである。

何かを「制限する」それ自体が権力の行使であるから「憲法は権力を制限する」は「憲法そのものは権力を有する」の意味を含意している。

もちろん憲法は人格を持ち自ら意思を示す主体ではない。憲法は自らの意思を示さないが憲法の条文を基礎に「憲法の意思」を示せる存在がいる。

それは憲法学者である。

これらのことから「憲法は権力を制限するもの。それが立憲主義だ」とは「憲法学者は国民の代表者を制限するもの。それが立憲主義だ」と読み替えることもできる。要するに現在の「立憲主義」論に基づけば憲法学者が国会議員を超越した存在になってしまう。

実際に憲法学者の政治的社会的影響力は極めて大きい。例えば安保法制の国会審議も憲法学者の長谷部恭男氏(東京大学名誉教授)が参考人招致の場で「集団的自衛権が許されるという点では憲法違反だ」と明言したことにより反対運動が急激に活発化した。

「制限する」の弊害

憲法学者が「国民の代表者」たる国会議員を超越し、その活動を制限することはとても健全な民主主義とは言えない。

現在の立憲民主党が主導している「立憲主義回復運動」とも呼べる運動の帰結はやや強い表現を使えば憲法学者が「日本国憲法を超越した存在」になる、もっと言えば「国家権力を超越する権力」を掌握する社会を招来させるだけではないか。立憲主義は計り知れない権力を創出しようとしている。

立憲民主党が主張する「立憲主義を回復させる」が実現した社会とは憲法学者の長谷部恭男氏の言葉を借りれば「法律家共同体」が「国家権力を超越する権力」を掌握する社会である。

長谷部恭男氏(日本記者クラブより:編集部)

もちろんこの場合における「法律家共同体」には民主的統制が及ぶ保障もない。一体、何が「法律家共同体」を拘束するのだろうか。

このことが筆者の最大の懸念である。

こうした懸念が生まれるのは立憲主義を論ずる際に生じる「制限する」の言葉がインフレ的に使用されているからである。

立憲主義に限ったことではないが「Aで権力を制限する」では実際には権力は制限されず「A」に権力が移転するだけである。

また「権力を制限する」の文脈では本来、権力に期待されている役割も果たせなくなる。

最近の例で言えばシリアで拘束されていたフリージャーナリストの安田純平氏が解放されネットでは「国家の国民保護義務」が話題になった。国際法では相手国の同意があれば「武力による奪還」は可能であるが、日本国憲法下ではこれができない。

「国家の国民保護義務」を全うさせるためには国家に然るべき能力と権限を付与することが前提になる。「国家の国民保護義務」の必要性を強調しておきながら例えば自衛隊の能力に制約をかけるべきだという意見は成立しない。

「権力を制限する」の文脈で「国家の国民保護義務」までが制限されてしまえば本末転倒である。

要するに「権力を制限する」の文脈では「権力は制限されず移転し権力の義務すら履行不能」な状態が成立してしまう。

思うに「権力の暴走を防ぐ」を根拠に「権力を制限する」という言葉が強調されているのだろうが前記したように「権力の暴走」は「制限する」ことでは防げない。「権力の暴走」は「制限する」のではなく「分割する」ことで防げるのである。

要するに「権力分立」が「権力の暴走」を防ぐ最適な手段であり日本国憲法下では一応、三権分立は保障されている。

もちろん実際の運用は色々あるのかもしれないが、基本的には「権力の暴走を防ぐ」制度は担保されている。

論を整理する下記のとおりとなる。

  • 「権力を制限する」の文脈では実際には権力は「制限」されず「移転」し、「法律家共同体」が「国家権力を超越した権力」を獲得する可能性が生じる。
  • 同じく「権力を制限する」の文脈では「国家の国民保護義務」が履行できなくなる。
  • 「権力の暴走」は「制限」ではなく「分割」でこそ防止できる。

以上の3点を踏まえて改めて確認されるのは「立憲主義」のインフレ化である。

「日本国憲法を超越した存在」とか「国家権力を超越した権力」を誕生させる恐れのある「立憲主義」は本来の意味を失っているのではないか。

立憲民主党の公約は「立憲主義を回復させる」であるが本当に「回復させる」必要があるのか。

安保法制可決からもはや3年が経過したのだから「立憲主義」について冷静に論ずる時が来たと言えるだろう。

高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員

注釈
*1: 警察庁 回顧と展望 平成27年度版 P40より
*2: 朝日新聞デジタル 2017年12月8日
*3: 日本経済新聞 2017年10月7日
*4: 池田信夫「日本はいつまで「核の傘」にただ乗りできるのか 必要なのは憲法改正より日米同盟の見直しだ」2018年1月5月