金正恩氏と「裸の王様」の話

デンマークのハンス・クリスチャン・アンデルセンの代表的童話に「裸の王様」がある。読者の皆様はご存じだろうが、そのストーリを少し紹介する。

「2人の仕立て屋が『自分の地位にふさわしくない者やばか者の目』には見えない、不思議な布地で衣服を作るというのを聞いたので、王様は早速2人を城に呼び、新しい衣服を作らせた。2人は『バカ者にはみえない布地』で衣服を織るふりをする。家来や大臣の目には何も見えないが、バカ者と思われたくないので仕立て屋の説明通りに王様に報告する。王様は新しい衣服を見るが、見えない。家来たちには見えた布が自分に見えないとは言えず、布地の出来栄えを大声で賞賛し、周囲の家来も調子を合わせる。パレードの日を迎えた。集まった国民も『バカ者』と思われたくないので、歓呼して衣装を誉めそやす。その中で、沿道にいた1人の小さな子供が、『王様は裸だよ!』と叫び、群衆はざわめく」

以下は、なぜ「裸の王様」の話をしたかを説明する。

▲朝鮮半島の非核化を確認した「板門店宣言」に署名した金委員長と文大統領(南北首脳会談プレスセンター提供、2018年4月27日)

▲朝鮮半島の非核化を確認した「板門店宣言」に署名した金委員長と文大統領(南北首脳会談プレスセンター提供、2018年4月27日)

文在寅大統領は9月に訪朝し、金正恩朝鮮労働党委員長と3回目の南北首脳会談を行ったが、その際、金正恩委員長に訪韓を招請した。金正恩氏はそれを快諾し、年内にソウルを訪問すると約束した。

文在寅大統領は17日、パプアニューギニアで中国の習近平国家主席と会見した際、「2回目の米朝首脳会談の成功と金正恩氏のソウル訪問が朝鮮半島問題解決の重大な分水嶺になる」と述べた。文大統領が金正恩氏のソウル訪問をどれだけ切望しているかが分かる。

同大統領は先月28日、記者から「金委員長が答礼訪問したときに何を見せるのか」と問われると、「金正恩委員長がソウルを答礼訪問する場合、南部・済州島の漢拏山に金委員長と共に行きたい」(韓国聯合ニュース)と述べるなど、遠足を心待ちにする園児のように今からワクワクしている様子を示した。

北朝鮮では金正恩氏は、人民の歓迎を受け、喝さいを浴びる。そのような生活を当然と考えて成長してきた3代目の世襲独裁者だ。その金正恩氏がソウルを訪問した場合を想像してほしい。板門店ならば側近に囲まれており、たとえ韓国領土に入ったとしても韓国民はおらず、韓国民の生活や考え方を知る機会は皆無だ。

金正恩氏は偽名でスイス・ベルンで短期間留学していたから、国際社会を知っている、と考える向きもあるかもしれないが、金正恩氏は当時、まだ独裁者ではなかった。「裸の王様」は王子の話ではなく、王様の話だ。同じように、「留学生時代の金正恩氏」の話ではなく、「独裁者となった金正恩氏」の話だ。

金正恩氏がソウル入りすると、行く先々で金正恩氏を大歓迎し、統一旗を振るのは一部の左翼活動家か、韓国政府関係者だろう。大多数の韓国民は「あれが金正恩か。若いのに太りすぎだな」といった印象を持つだろう。北に親族関係者を持つ「以北民」は金正恩氏に向かって罵声を飛ばすかもしれない。脱北者の場合、金正恩氏は最大の憎しみの対象だ。罵声で済むかどうか治安関係者も気が気でない。多分、脱北者は金正恩氏の訪問先には近づけられないだろう。

金正恩氏の傍で文大統領は国民の反応を心配顔で見つめる。南の国民と対話する金正恩氏が実現すれば、大きな「絵」になるし、南北融和を象徴する絶好のシャッターチャンスだが、金正恩氏と対話できる韓国民は準備され、選択された国民であり、普通の国民ではないことは皆知っている。

路上で旗を振る国民は少なく、時には罵声も耳に入る。トランプ米大統領がツイッターで「チビデカ」とか「ロケットマン」と金正恩氏を中傷した言葉がソウルでも飛んでくる。賢い文大統領はそのようなシーンが生じないために、韓国民の声が届かない済州島の漢拏山に金正恩氏を誘うかもしれない。

金正恩氏は独裁者であり、人民を弾圧し、反体制派を政治収容所に送る一方、多数の国民を粛正してきた。すなわち、金正恩氏がソウルを訪問すれば、非情で冷血漢の独裁者の姿をもはや隠すことはできなくなる。金正恩氏は文大統領が懸命に隠そうとしてきたものと対峙しなければならなくなる。ソウルの小さな子供はきっと「ねえ、あの太った人は誰?」と傍の父親に聞くだろう。

「裸の王様」は「バカ者には見えない布」で出来た衣服を着てパレードに出たが、小さな子供に直ぐに見破られた。一方、北の独裁者は、如何に多くの笑顔を振りまいたとしても、ソウル市民の目には「世襲独裁者」に過ぎないのだ。ひょっとしたら、金正恩氏本人がそのことを最もよく知っているかもしれない。金正恩氏はバカではないからだ。だから、当方は金正恩氏が本当にソウルを訪問するとは信じられないのだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2018年11月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。