相互扶助に損得はない

2018年11月27日 11:30

相互扶助は、扶助を受ける立場になるかどうかわからないから、万が一に備えて、相互に助け合う仕組みである。扶助を受ける立場になれば、自分の掛金の元が取れるが、それを喜ぶのはおかしいし、自分が扶助を受ける立場にならなかったら、自分の掛金は戻ってこないが、それを損と考えることもおかしい。年金制度も相互扶助のはずだが、さて理屈は同じか。

人は常に死の可能性に直面している。死の可能性がある以上、自分の死について確率を論じることはできる。しかし、自分の生を客体化して確率を論じることに何の意味があろうか。主体的に生きられる自己の生においては、可能性としての死はなく、事実としての生しかない。

ところが、十分に大きな人の集団においては、確率を論じることに意味がある。人に寿命がある以上、集団のなかにおいては、死は、確実な事実として、どこかに生起するからである。ただし、集団のなかの誰に死が訪れるかはわからない。死は、集団において確実であり、個人において不確実である。だから相互扶助の原理が必要なのである。それが保険である。

純粋な生命保険を考えよう。まず、大きな被保険者の集団を作らなくてはならない。大きなという意味は、生命表、即ち、死亡率の統計が十分に意味をもつだけの大きさということである。この集団では、死亡は生命表に従って確実に生起する。

死亡保険金の支払額は、生命表により高い精度によって推計される。その予想支払額と同じだけの金額を集団の構成員から保険料として徴収しておけば、収支は常に均衡する。これを収支相等の原則という。収支相等ということは、保険料は全て死亡保険金に充当されるということだから、死ななかった人には一円も戻らない。これは保険理論の必然であって、損と考えるのはおかしい。もしも、これが損ならば、死んで保険金を受け取ることは利得だが、まさか、そう考える人はいない。

純粋な生命保険の全く逆を考えると、純粋な生存保険ができる。純理論的にいって、生存保険は、生存という事故を付保対象としているから、生存という事故が生起しなかったら、保険料は一円も戻ってこない。では、生存という事故とは何か。

生存という事故は、死亡という事故ほど明瞭ではない。生存が危険であるのは、生存を支える所得がなくなることである。典型的には、疾病もしくは老化によって、就労できなくなるような身体の状態に陥ることである。

老化による就労不能の定義は、身体状態の個人差が大きく、何よりも、仕事の種類や勤務形態によって就労可能年齢の上限も大きく異なるので、客観的な基準を設けないと決まらない。例えば、65歳をすぎても生存している場合というように。

65歳以上の生存を事故として、65歳から死亡するまで、生存を支える生活資金を定期給付金として支払う仕組み、これが典型的な生存保険としての終身年金保険である。公的年金というのは、このような終身年金保険を、政府が保険者となり、全国民を被保険者として、実施しているものなのである。

さて、65歳に至る前に死亡すれば、保険料は一円も戻らないが、それを損と考えることはできない。同様に、66歳で死亡する人と、100歳まで生きる人とを比較すると、年金給付額が大きく異なるわけだが、それを不公平ということもできない。なにしろ、公的年金は、自分の余命がどれくらいになるのかわからないからこその相互扶助の制度なのだから。

 

森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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