「利権談合共産主義」と「既得権」~勝谷誠彦先生に捧ぐ

公式サイトより

勝谷誠彦さんが亡くなった。「コラムニスト」としてあこがれた身近な存在。毎日発信される日記も(わざわざ)購入し、コンサルタントとして忙しい日々が続く中、夢を忘れないように毎日読んでいた。時には行政の問題点を指摘したこともあった。今回は、彼が残した「政治言語」について考えてみたい。

 

「利権談合共産主義」

その定義は、

国家、政治家や官僚、マスメディア、国民が互いに癒着を起こして、利権政治や談合政治を行い、また国民がそれを黙認する日本独自の政治体制・政治思想、もしくはそのさまを揶揄した造語

【出典】wikipediaより

この言葉は、「築地おどり」とならぶ、勝谷誠彦の「名作」とも言われている。確かにある視点からみれば、そうみられる。進学校→東大出身者のネットワークが張り巡らされているし、ある意味「貴族社会」のようなところも確かにある。首相はメディアトップと会食し、監視機能も限定的でもある。その状況を喝破した勝谷さんは鋭い。

しかし、一部を垣間見た筆者には、「利権談合共産主義」というほどには、エリートの同質性はあるとは思えなかった。皆、それぞれのプライドを持ち、他人のために頑張っている。それほど自分勝手な人たちでもない。政治学的に言えば、「コーポラティズム」の範囲内である。

確かに、利権構造があることはその通りだが、それぞれのアクターが互いに競争・牽制しているところもある。

「既得権」の構造

「既得権の打破」という言葉は10年前にかなり叫ばれた。既得権を握った層がいて、独自の権利を手放さないという意味で使われてきた用語だ。政治に影響を及ぼし、自分たちの利益をとうそうとする圧力団体、利益団体の活動が許されているため、その活動は自由であることが前提である。団体の権利がどの程度まで大きいのか、解釈によって変わってくる。

アメリカでは特殊利益(Special interest)とも言う。トランプさんも特殊利益を打破すると、一部の大手企業などを批判している。

既得権はあるだろう。しかし、どの立場にたっても既得権は存在する。

ビジネスの邪魔を取り除こう、新しい投資をしやすくしてもらおう、補助金を得よう、うまくいかなかったときは公的融資を得よう、自由競争や参入を阻害してもらい競争環境を守ってもらおう、といった行動をとる。それは当然のことだ。

いいとか悪いとか言っているわけではない。そういったものなのだ。それは左翼、リベラル団体の方もそう。

政治とは「価値の配分闘争」であるのだから、どのみち既得権はできる。だから結局、程度問題なのだ。悲しいかな。

「既得権打破」の限界

その意味で「既得権打破」という考えはどうかと疑問を感じる。そもそも政治というものの構造は各組織・アクター・プレーヤー(属性ごと)の競争。

なので既得権打破と批判している人たちが勝っても、結局、新たな既得権を創るだけ。そもそも新たな既得権を創れる力がないと選挙には勝てない。

しかも「既得権打破」は既得権側の危機意識を刺激するので、有効には機能しない。

同じ日本社会の仲間である。打破ではなく、過剰な既得権の是正・公平化ということを掲げることが得策であろう。

「利権談合共産主義」っぽい日本の問題

利権談合共産主義は、政治的利害がない無党派層からみれば正しい。しかし、正しい描写なのか、そのことを評価をするのは難しい。

問題なのは第一に、利害関係・利権構造がオープンになっていないこと。第二に、一定基準から見て、過剰に偏った権利・利害が存在している場合、どの程度、過剰と言われる部分を是正できるか議論する・対話する方策がないことなのだ。

この2年、尊敬する一流ジャーナリストの下で修行をする機会に恵まれている。メディアの仕事をしていて思うのは、日本社会は、利権談合共産主義というより、「権威主義」であること、そしてその根深さだ。そんなこと、天国の勝谷さんはそんなこととっくにわかっていたのかもしれないけど。

勝谷誠彦さん、私も微力ながら良民常民の1人として頑張っていきます。あなたは僕の先生でした。最後まで寄り添えなくてごめんなさい。
合掌

心からの感謝と愛をこめて 西村健