明治レジームを総括する③ 西郷隆盛と靖国神社

玉木 雄一郎

大河ドラマ、西郷どんも、ついに最終回を迎えました。鈴木亮平さんをはじめ名優たちの熱演に、感動しっぱなしでした。

さて、「西南戦争」の回で描かれたように、明治10(1877)年、「政府に尋問の筋これあり」として、東京に進軍し始めた西郷隆盛に、明治政府は直ちに征討令を発します。こうして西郷は、“賊軍”の将となりました。そして、後々まで、逆賊のそしりを受けることとなった西郷隆盛ですが、靖国神社本殿には祀られていません。

Wikipediaより:編集部

このような状況を憂いて、平成28(2016)年10月、かねてから西郷隆盛を靖国神社にお祀りすべきだと主張してこられた亀井静香先生は、有志の方々との連名で、「賊軍」の合祀を靖国神社に申し入れました。

その合祀申し入れ書には、このような一節があります。長くなりますが、引用します。

神話の国譲りに始まり、菅原道真公を祀る天満宮や、将門首塚など我々日本人は歴史や文明の転換を担った敗者にも常に畏敬の念を持って祀ってきました。

そのような中で、西郷南洲、江藤新平、白虎隊、新撰組などの賊軍と称された方々も、近代日本のために志をもって行動したことは、勝者・敗者の別なく認められるべきで、これらの諸霊が靖国神社にまつられていないことは誠に残念極まりないことです。

ご承知とは存じますが現在も会津では長州人を嫌うといった官軍、賊軍のわだかまりは消えておりません。

今日世界中が寛容さとは真逆の方向に突き進んでいることから、我が国の行く末も案じられてなりません。

有史以来、日本人が育んできた魂の源流を今一度鑑み、未来に向けて憂いなき歴史を継いでいくためにも、靖国神社に過去の内戦においてお亡くなりになった全ての御霊を合祀願うよう申し出る次第です。

日本の伝統的な精神は、自然が神様という多神論でした。仏教伝来後も、神と仏とが合体した信仰を、日本人はずっと維持してきました。

しかし、明治政府は、廃仏毀釈を強行し、国家神道という“一神教”を成立させます。その一神教時代を支えたものの一つが、靖国神社です。そこでは、国家のために死んだ人々「だけ」が祀られます。そのため、維新三傑の一人でありながら、西南戦争で「賊軍の将」となった西郷隆盛は祀られないということになった訳です。

むしろ私は、日本古来の伝統になじむのは、「賊軍憎し」ではなく、「敵も、味方も」と考える寛容の心であると思います。そのような寛容の精神の現れといえる事例は、現在に至る歴史の中で、数多く見出すことが可能です。

鎌倉時代、ときの執権北条時宗は、蒙古襲来による殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うため、鎌倉に円覚寺の建立を発願しました。

「怨親平等(おんしんびょうどう)」という考え方です。

さらに、鎌倉時代の末期、千早・赤坂の戦いで戦死した兵士の例を弔うため、楠正成は、「寄手塚・身方塚」を建立したといわれています。「寄せ手」とは、敵軍である鎌倉勢のことですが、その霊を鎮めるために、正成はあえて「敵」という言葉を使わず、さらに味方の兵を弔うための身方塚よりも、寄手塚の方を大きく作りました。

慶長4(1599)年には、高野山に「高麗陣敵味方戦死者供養碑」が、島津義弘とその息子忠恒によって立てられました。この碑は、文禄・慶長の役、いわゆる豊臣秀吉の朝鮮出兵で亡くなった味方の軍勢だけではなく、李氏朝鮮や明国など、敵方の戦死者をも供養しています。

明治に入って、日露戦争の折、ロシア将兵の戦没者を丁寧に祀ることを、水師営の会見でロシアに約束した乃木大将は、明治40(1907)年に、日本各地に散在するロシア将兵の墓を旅順に集めて、ロシア風の墓地と顕彰碑を作り、慰霊祭を行いました。これは、その後、明治42(1909)年に日本軍の戦没者を慰霊するために旅順の地に表忠碑を建立し、慰霊祭を行う、1年半も前のことでした。

同じく、日露戦争の日本海海戦の後、戦死したロシア水平の遺体を発見した隠岐の島の漁師が、遺体を島に連れ帰り、墓を立てて供養しました。明治38(1905)年に立てられたその墓の前では、現在でも島民が「ロシアの水兵さんをしのぶミニコンサート」を開催して、墓前に鎮魂の意を捧げられています。

太平洋戦争後の沖縄では、昭和21(1946)年に、「魂魄の塔」が建立され、沖縄戦で亡くなった約3万5000の人々の遺骨が住民の発意によって集められ、軍民、人種を問わず葬られました。なお、魂魄の塔を命名したのは翁長助静氏。先に亡くなられた翁長雄志・前沖縄県知事のお父上です。

「戦火で荒れ果てた地に散乱する遺骨を前にした時、沖縄戦を生き延びた私たちの先輩は、軍人の遺骨だからとか、憎むべき敵・米兵の遺骨だからとかいうわだかまりを持つことなく、誰に看取られることなくこの地で死んでいった者への哀悼の気持ちと、死者は丁寧に弔わなければならないという真摯な思いをもって対応したと思います。これこそが、私たち沖縄県民、那覇市民の慰霊の心の出発点ではないかと思います」(平成21年8月1日 那覇市長 翁長雄志「8月の市長メッセージ」より)

また、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して、平成7(1995)年6月、沖縄に「平和の礎」が除幕されました。そこには、平和のこころを内外に伝え、世界の恒久平和を願って、国籍、軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などでなくなられたすべての人々の氏名を刻んだ記念碑が建てられています。

さらに、毎年8月14日の夕刻。国立・千鳥ヶ淵戦没者墓苑では、新日本宗教団体連合会の主催で、戦争犠牲者慰霊並びに平和祈願式典が行われています。回を重ねて、今年で50回目。この式典は、教義や信条の違いを乗り越えて、多様な宗教者が集い、戦争の犠牲者なられた日本人のみならず、すべての戦争で亡くなられた犠牲者に慰霊の誠を捧げるとともに平和を祈願することを趣旨としています。

そして、昨年3月。戊辰戦争に巻き込まれてなくなった市井の人々も含めて、かつての敵味方の区別なく、すべての戦没者を慰霊するための総供養の場として、日野市の高幡不動尊金剛寺において、戊辰戦争の百五十回忌総供養祭が営まれました。

「ただでさえ複雑な幕末で、様々なことに関わっている西郷を描くのは挑戦でしたが、最後まで書ききってやっと理解できました。国が生まれ変わるときには死ぬ者がいる、それをわかっていたのが西郷なんです。未来はどれだけましな世の中になっているんだろうと思って死んでいったのに、この後いくつもの戦争を迎え、彼らが目指していた理想の国家に結局たどり着けなかったと思うと申し訳ない、切ない気持ちになる。いま西郷隆盛を描いた意味は、そういうことなんだと思います」

大河ドラマ「西郷どん」の原作者、林真理子さんは、単行本の「発売に向けて」のことばとして、西郷の心の中を察して、そう述べておられます。

一方、西郷を切り捨てた明治政府は、確かに国家の独立を維持し、近代化には成功したかもしれませんが、日本の伝統的な思想とはなじまない「一神教的排他主義」にとらわれ、欧米流の覇道に足を踏み入れた結果、日本は破滅へと突き進みました。

西郷隆盛から「賊軍」「朝敵」の汚名を取り去ること、これが、新たな時代を「寛容と平和」の日本にできるかどうかをはかる、一つの試金石になると思います。


編集部より:この記事は、国民民主党代表、衆議院議員・玉木雄一郎氏(香川2区)の公式ブログ 2018年12月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はたまき雄一郎ブログをご覧ください。