南青山住民の「不寛容さ」批判の前に求められる「説明責任」

西村 健

南青山の児童相談所建設反対騒動、先週末14日及び15日に説明会を開催。そこでも、相変わらず地元の批判は強かったようだ。

・触法少年が治安悪化する可能性
・必要性は感じるが、なぜ南青山なのか
・治安悪化への懸念
・南青山ブランドに傷がつく・・・・

厳しい言い方をすれば、「誤解」「曲解」のオンパレード。「差別意識」といっても過言ではないものまで含まれていた。

行政の戦略に乗っているかもね?

しかし、住民の心配はおそらく多くが杞憂になることだろう。監視カメラで犯罪なんてたいていが抑止可能になってくるだろうし、資産価値は下がるのは非寛容な住民の存在では・・・とも思ってしまう。

これ以上に本音や感情ベースの住民エゴを出しすぎると(反対運動を展開する人もいるようだが)、目立ってしまうと「本当に」南青山のブランド価値を下げるかもしれないので注意も必要だろう。

なので、港区はとっとと区民アンケートでも取ればいいのにと思う。そうすれば、サイレント・マジョリティー(沈黙する人々)は基本賛成していて、今回の騒動を苦々しく思っている構造が明らかになるかもしれない。ただし、その結果が万が一「反対」が多い結果になる可能性(行政にとってはリスク)があるのでできないのだろう。

もしかしたら、住民エゴを洗いざらい喋ってもらって、怒っている住民のガス抜きをして、そして同時に世論を味方につける方法を港区は考えているのかもしれない。

自分が住民の立場だったら???

そもそも反対意見は、「自分の近くはヤダ」という論理と感情につきるからだ。音喜多議員が書いているように「NIMBY」(Not in My bachground:私の近くではやらないで)問題ともいえる。

彼の文章が的確に原因を解説してくれているのでそれに任せて、自分は別の視点で考えてみたい。それは、「自分だけよければいい」という人たち、ある意味かわいそうな人、非寛容な人たちと批判するのはどうなのかとも思ったからだ(前回の筆者記事)。彼ら・彼女らの立場でものを考えてあげないと、結局、その人たちと同じ穴のムジナになるという個人的な反省もある。

近くを歩いてみればわかるが、近くの道路はとても混雑する。歩道を落ち着いて歩けないという現実もある。今回の施設ではなくても、道路は混雑するから嫌だという意見もあるだろう。

また、「自分の近くはヤダ」論理と感情を抑えたり、引き受ける人が多いほど人間は優れているわけではない。「自分の近くはヤダ」論理と感情もうそれは価値観にまで固まったもの。ご自身の人生経験やそこからの考え方、価値観、さらにはDNA、両親の価値観、育った環境などに影響を受けるものである。いまさら価値観は変えられない人も多い。

しかし、この施設の社会的意義や必要性を理解している人は多いはず。ある一定の条件が満たされれば「賛成」という人もいるだろう。

その中でも、重要な点は「なぜこの場所なのか」という選定理由だろう。

配布資料を見ても、施設の意義、現状などの資料はたくさんあった。しかし、選定理由はその中からは見つからなかった。

まずは要望に至る過程をオープンに

港区による

平成28年8月の国からの情報提供に基づき、当該用地について「児童相談所ほか関連施設」の整備地として国に売払を要望し、国の審査を経て、平成28年12月に国から相手方決定通知を受け、平成29年11月に当該用地を購入しました。

とのことらしい。

どのような情報提供を受けて、どう判断し、どのような基準のもと、候補地をどのように検討して、比較検討し、どう議論し、どう評価し、要望の意思決定に至ったのか。

そこが分からなければ、納得のしようもないという気持ちもわからなくはない。国から情報提供を受けて「南青山ありき」で検討した疑いも濃いからだ。だからこそ本来ならその責任者が説明をしないといけないと思う。それこそが説明責任だろうと思う。

その議論や検討過程が明らかになれば、ま~世の中はお互い様だし、引き受けるかという人もいるかもしれない。

住民の中にも理性的な人はいるはず

「南青山には似合わない」「ブランド価値が落ちる」という人にはそういう人もいるのだろうと思うしかない。今回のメディアでの騒がれ方は、日本社会の資本主義「エリート」と呼ばれる人たちが自分の価値観を問いなおす、メディアの批判を受けて、自分たちの課題も知ることになるいい機会と思ってみている。

しかし、簡単に「えせセレブ」批判するのもどうかと思う。住民の中には理性的な人もいる。その人たちの立場で眺めてみると、「そもそもなぜ?」という疑問に行き着くはずだ。

南青山の「不寛容さ」批判の前に、「なぜここなのか?」という住民ニーズに応えられているとは思えない行政に改善を期待したい。