LGBTと生産性 〜 今さら杉田水脈論文を振り返る 〜

宇佐美 典也

ども宇佐美です。
久々のブログ更新。諸方面から宿題になっていたこともあり、今更杉田水脈のいわゆる「LGBTには生産性がない」論文について思うところをつらつらと書いていきたいと思います。


「新潮45」を結果的に廃刊に追い込むほどに炎上したこの論文ですが、文脈を把握するために前後も含めて抜粋すると、杉田議員はLGBT問題について以下のように論理展開をして「そもそも政府が取り組むべき問題などないのだ」というような主張をしています。

①LGBTの当事者たちの方から聞いた話によれば、生きづらさという観点でいえば、社会的な差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらいと言います。親は自分たちの子供が、自分たちと同じように結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています。だから、子供が同性愛者だと分かると、すごいショックを受ける。

②これは制度を変えることで、どうにかなるものではありません。LGBTの両親が、彼ら彼女らの性的指向を受け入れてくれるかどうかこそが、生きづらさに関わっています。そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか。

リベラルなメディアは「生きづらさ」を社会制度のせいにして、その解消をうたいますが、そもそも世の中は生きづらく、理不尽なものです。それを自分の力で乗り越える力をつけさせることが教育の目的のはず。「生きづらさ」を行政が解決してあげることが悪いとは言いません。しかし、行政が動くということは税金を使うということです。

③例えば、子育て支援や子供ができなカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要項を発表するたびにもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。

段落ごとに端的にまとめると

①LGBTが生きづらいのは「社会的な差別よりも親の無理解」。親が無理解なのはLGBTカップルが子供を産まないから。

②LGBTは「生きづらい」というが世の中そもそも生きづらいものだ。それを自力で乗り越える力をつけさせるのが教育の目的のはず。

③行政が動くというのは税金を使うということだ。子供を作らないLGBTに税金を投入することは「生産性」が無いから理解が得られない。

というところでしょうか。一目見ただけでツッコミどころ満載な気がするのですが、私として覚えた違和感をまとめると以下のようなところです。

①杉田議員は「LGBT差別は社会ではなく家族の問題」というように切り捨てていますが、「むしろ家族こそが社会なのではないか?」という視点が欠けていることです。これは私が携わっているギャンブル依存症問題に関しても言えることですが、多くの場合個人にとって家族との関係はもっとも重要な人間関係の一つで、家族の無理解こそが問題の原因および問題解決の最大の障壁になるということです。LGBTが家族に受け入れられないという現実があるならば、公的に彼らを積極的に受け入れられるコミュニティを社会に形作っていくことが、政府として重要な取り組みなのではないか、と私としては考えるところです。

②つづいて教育の目的について「生きづらさを自力で乗り越える力をつけることだ」ということを論じているわけですが、少なくとも政府はこれを我が国の教育の目的としていません。杉田議員がどのような持論を持っているかわかりませんが、教育基本法では以下のように「人格の完成」と「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」を教育の目的として条文に記しています。

(教育の目的)
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

(教育の目標)
第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。

二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。

三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。

五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

杉田議員のおっしゃるようなことは第二条の「教育の目標」のところで「自主および自立の精神を養う」に該当するのかもしれませんが、他方でLGBTに関する理解を深めることは「自他の敬愛」という文脈に当てはめることで、教育政策としては壁を乗り越える自律性を育むとともに、LGBTという特性に対する社会の理解を深めて乗り越えるべき壁を低くしていくことも、考えていかなければならないのだと思います。

最後に件の「税金を投入する場合の生産性をどう定義するか」に関する議論についてです。これについて「そもそも生産性という言葉自体が不適切だ」という声もありますが、私はそうした声には同調しません。税金を投じる以上、何らかの目標が必要でしょう。問題はむしろ、「生産性をどう定義するか」ということなのだと思います。確かに

・生産性=家庭の子供の人数/生物学上の親の数(=2)
と定義すればLGBTカップルの生産性はゼロとなります。他方で
・生産性=家庭で育てた子供の人数/育てた親の数
と定義して、里親制度や代理母制度や精子提供制度との組み合わせを考えていけば、LGBTカップルの生産性はゼロとはならないでしょう。難しい論点を孕みますが、もしかして、こうした制度を充実させれば我が国における中絶数をもっと減らしていけるのかもしれませんし、少子化対策にも寄与することになるのかもしれません。それであれば杉田議員の言うところの生産性に幾分か寄与することになるでしょう。

結局のところ「生産性をどう定義して、それを向上させるために、どのような政策を実行するか」こそが政治家としての問われる資質なのだと思います

このように私は杉田議員の論文は、炎上が収まった今振り返ってみても、やはり相当に問題があるといいますか、議員としての資質が問われるような内容だったと思います。

と、ここまでやや大きな視点議論をしてきましたが、より切迫した身近な話として、私にもLGBTの友人が何人かいるのですが、彼らは今台湾に視線を向けています。なぜかというと、2000年代に入ってから台湾政府がLGBT問題に関して積極的に取り組む姿勢を見せ社会のLGBTに関する理解が深まっており、なおかつ台湾は文化的にも地理的にも日本と近く、日本で培った人間関係などの無形資産を失わずとも行き来できるからです。移住を検討する人も多数います。

こうした人材をどうやって日本を引き止めるか、という打算的な人材政策の観点からも私はやはりLGBTに対する政策というものを考え直す頃合いが来ているのだろうと思います。杉田議員が、心を入れ替えて、むしろLGBT問題に真剣に取り組む議員になってくれれば、世の中は大きく変わるのでは無いか、と個人的には思いますし、あの論文も無駄にはならないのではないかと思っております。

ではでは今回はこの辺で。


編集部より:このブログは「宇佐美典也のblog」2018年12月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は宇佐美典也のblogをご覧ください。