日本国憲法を奪うのは誰か

2019年01月16日 06:00

憲法学者の国政介入 

筆者の早川氏への再反論に対し、早川氏当人から再度、反論をいただいた。

異論には敬意:借り着でも憲法は憲法(アゴラ:早川 忠孝)

筆者はもっと強い調子で反論されると思ったがその内容は穏健であり、氏の懐の深さを感じた。早川氏の筆者への態度は議論の幅を広げるものである。憲法に限らず全ての政策論議で早川氏の態度が望まれる。

さて、早川氏は憲法論議の必要性を説いており、その中で氏は「憲法改正の議論を国会議員や一部の憲法学者、一部の国際法学者にだけ任せていてはいけない」としている。

早川氏が指摘する「一部の国際法学者」とはおそらく国際政治学者の篠田英朗氏だろう。筆者も早川氏の趣旨に賛同するものだが、憲法論議で最も大きな影響力を持っているのはやはり憲法学者である。憲法論議に限らず憲法学者の政治的社会的影響力は極めて大きい。

2015年の安保法制の国会審議の際に憲法学者の長谷部恭男氏が安保法制を「違憲」と述べたときから反対運動が急速に盛り上がったことを見てもそれは明らかである。

日本記者クラブより:編集部

この安保法制の例を見ても「立憲主義を守る」程度のことしか言えない野党は憲法学者の国政介入を招いていると言える。

現在の野党、特に立憲民主党は政党というよりも「法律家共同体の政治部門」と見た方が正確である。

「統治権の独立」が日本を滅ぼす

戦後の日本の憲法学は「抵抗の憲法学」と自己規定している(1)。「抵抗の憲法学」の名の下に「権力に抵抗する」とか「権力を制限する」という姿勢で日本国憲法を解釈してきた。

戦後の憲法学者は政権与党たる保守政党を「国民の代表者」ではなく「大日本帝国の後継者」と見なしていた。確かに自由民主党には岸信介を始めとする「大日本帝国の指導者」が少なからずいた。昭和天皇にいたっては憲法学者の理解では大日本帝国そのものだったのではないか。

支持はできないが戦後の憲法学者もまた「戦争体験者」だったことを考えればこうした姿勢は理解できなくもない。要するに「抵抗の憲法学」を追究する理由はある。しかしどんなに贔屓目に見ても「抵抗の憲法学」の追究は「戦争体験者」までであり具体的な人名を挙げれば芦部信喜氏まではないか。

「戦後生まれ」の憲法学者に「抵抗の憲法学」を追究する理由はないはずだが執拗にこれを追究しており、その文脈で「立憲主義」という言葉が出てきたのは間違いない。

この「抵抗の憲法学」を支える根拠としては「統治権」の存在が挙げられる。

憲法学者によれば国家は「統治権」という何か我々主権者が統制不可能な権力を有しているという。

しかし日本国憲法には「統治権」の言葉はなく篠田英朗氏によれば「統治権」概念はドイツ国法学に基づく大日本帝国憲法の解釈の思考を受け継いでいるに過ぎないという(2)

篠田氏の指摘に基づくならば、ちょっと言葉は悪いが戦後の憲法学者がこだわる「統治権」とは「師匠の解釈」をただ受け継いで存在しているに過ぎないだけではないか。その程度のものは受け継がなくて良い。日本国憲法に「統治権」など存在しない。

問題は存在しない「統治権」が憲法学者の頭の中だけにあり、それを根拠に「抵抗」することが正当化されているのである。そこに主権者より選出された国会議員を「国民の代表者」とみなす発想はなく議会制民主主義が軽視(無視)されている。

「統治権」は憲法学者の頭の中にしかなく憲法学者以外の者には理解不可能なものだから「統治権」は「独立」しているとも言える。戦前の「統帥権の独立」ならぬ「統治権の独立」が成立しているのである。

「統治権」の存在を強調し、それに「抵抗」することを根拠に憲法学者は不当な権力を獲得し、その後続には反社会的活動家がいる。

そしてこの反社会的活動家は「抵抗」の名の下に「多数派の中枢」に威圧を行うのである。今後は増加するだろう在日外国人も誘って威圧を行うだろう。

要するに「統治権」が日本社会に深刻な緊張を生み出すのである。

大日本帝国は「統帥権の独立」によって滅びたと言われるが戦後日本は「統治権の独立」によって滅びるかもしれない。

地方自治に介入する憲法学者

それにしても憲法学者は政治活動に熱心である。既に安保法制の例を挙げたが最近でも沖縄の普天間基地移設に関する県民投票を巡って憲法学者の木村草太氏は積極的に発信している。

衆議院インターネット中継より:編集部

筆者は一地方公務員に過ぎないが、一方で一地方公務員だからこそ言えるが「地方自治」の主役は市町村であり都道府県ではない。「住民」と近く接する機会が多いのは市町村職員である。読者の方々も「役所の用事」を思い出せばその多くが在住市町村の窓口に行く用事ではないだろうか。もちろん都道府県が担う事務もあるが、それも大体において「地方分権」の名の下に市町村に権限移譲されている流れにある。

「地方分権」というと「道州制」とかスケールの大きいものが話題になりがちだが、「地方自治」の本質が住民自治であることを考えれば住民との距離が近い市町村に権限移譲されるのが常識的である。

今後、「地方分権」「地方自治」の文脈で都道府県の役割は縮小し市町村をサポートする存在になるだけだろう。「地方自治」とは住民と市町村が担うものである。

だから住民の代表者から成る市町村の議会が県民投票に「不参加」の意志を示した意味は重く謙虚に受け止めるべきである。

一地方公務員である筆者としては木村氏の市町村議会の決定を批判する意見には違和感しかなく、そもそも沖縄県がまるで投網をかけるように市町村に県民投票を迫る姿勢は極めて問題があると言わざるを得ない。

そして市町村に投網をかける沖縄県に同調している木村氏の視点は完全に「権力者」である。

憲法学者がいよいよ地方自治にも介入してきたのかというのが筆者の率直な感想である。

少し話は変わるが国政と地方政治の関係に目をやると都道府県の首長は国政にも影響を与えていることが多い。今話題の沖縄県の玉城デニー知事はもちろん東京都の小池百合子知事が「民進党解体」を誘発したことは記憶に新しい。

確かにどんなに知名度のある人物でも市町村の首長の立場で国政に影響を与えている姿は想像できない。都道府県の首長の知名度、存在感はやはり圧倒的である。

筆者の独断と偏見で言えば玉城デニー、小池百合子の両氏は国会議員時代に何か実績を残したという印象はない。そういう人物が「地方自治」の主役でもない都道府県の首長に流れつき国政を攪乱させているだけではないだろうか。

憲法を主権者に取り戻すための改憲

日本国憲法を我々主権者から奪っているのは憲法学者である。大日本帝国時代を見ても日本の政治文化では憲法は聖典化されやすく、戦後もまた同じ現象が起きている。

憲法改正の意義は日本国憲法を聖典化し、その護持ないし解釈を通じて不当な権力を得ている勢力の「正常化」である。

彼(女)らが「正常化」することで憲法は我々主権者のものになる。望ましい改憲は憲法9条2項の削除であるが、それは政治的に難しく現状では「9条加憲案」に留まっている。

しかし「9条加憲案」でも憲法の聖典化に風穴を空けるのは間違いなく憲法論議の幅は大きく広がり「9条2項」の改正も射程に入るだろう。

「9条加憲案」は憲法を我々主権者に取り戻すための第一歩であり、筆者としては「9条加憲案」を強く支持したい。

高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員

脚注
(1) 篠田英朗「ほんとうの憲法」 107頁 ちくま新書 2017年
(2) 同  上          199頁

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