“貧困ビジネスと化す奨学金”から考える日本の将来像 --- 丸山 貴大

寄稿

経済協力開発機構(OECD)の調査によると、2015年のOECD加盟国において、国内総生産(GDP)のうち小学校から大学までの教育機関に対する日本の公的支出の割合は2.9%で比較可能な34ヶ国中で最下位だった。OECD加盟国の平均は4.2%だった。

政府作成の「子供の貧困対策に関する大綱について」(平成26年8月29日 閣議決定)によると、ひとり親家庭、生活保護世帯、児童養護施設の大学等進学率(専修学校・短大含む)は、それぞれ41.6%、32.9%、22.6%だ。全世帯のそれは73.3%である。ここに教育格差が明示されている。

大学進学に際しては、やはり大金を要する。文部科学省の調査によると、2016年度の授業料は、国立大学、公立大学、私立大学、それぞれ535,800円、537,809円、877,735円だ。入学料は、それぞれ282,000円、393,426円、253,461円だ。

それを工面することができない人は、奨学金を利用するだろう。独立行政法人日本学生支援機構(JASSO)の「平成28年度学生生活調査」によると、何らかの奨学金を利用している割合は、大学(昼間部)、短期大学(同)それぞれ48.9%、52.2%だった。

奨学金の実態について、藤田孝典『貧困世代』(講談社新書、2016年3月20日)では、奨学金やブラックバイト問題を追及している中京大学の大内裕和教授の見解を紹介している。それによると、奨学金は給付型ではなく貸与型且つ7割以上が有利子貸与で借りている。2012年時点で、日本学生支援機構の奨学金返還を延滞した人は、33万人を超え、滞納額は900億円に上る。

その背景について藤田氏は、学生の親世代の所得減少という問題を指摘している。雇用の不安定化や賃金の減少は、学生を支援する親世代のみならず、学生が働く世代になったとしても、奨学金返済に苦しめられることになるだろう。

中村淳彦『女子大生風俗嬢』(朝日新書、2015年10月30日)において、前述の大内教授は

「今の大学生は経済的に大変なことになっているし、性風俗でアルバイトをする女子学生も、それはたくさんいるでしょう。経済的に破綻しているのだから、当たり前の話です。今の学生たちは日本学生支援機構が仕掛ける“奨学金”という貧困ビジネスの被害者といえます」

と述べている。中村氏も

「日本学生支援機構の“奨学金”は国と金融業者がタッグを組み、低所得世帯をターゲットにした貧困ビジネス」

と指摘している。

やはり、借りたお金を返さなければならないという義務は大学生にとって非常に重くのしかかることである。大学に入って授業を受けて貰えるのは単位であり、お金では無い。故に学生はアルバイトに従事する。例えそれが、過酷又は違法性を帯びたアルバイトや、女性にとって究極の肉体労働とも言える性風俗に当たり前のように従事せざるを得ないのが、紛れもない実態と言えよう。

そもそも、学生の家庭が相対的貧困に陥っていた場合、奨学金返済は家計にも大きな負担となる。又、地方から上京している学生は生活費や家賃等もかさみ、負担は増すばかりだ。

大学に入って学びたいことがあるが、その後ろには時として奨学金返済がついて回る。就職しても非正規雇用の場合、やはり返済の道は過酷であろう。このような道を大学生に歩ませるのは忍びなく、可哀想だ。大学に入る目的が学業の大成では無く、奨学金の返済ともなれば、もはや訳が分からない。

大学生に真の学問の自由を与えるべく、自由に学べる環境を整え、その学びに負担がなるべくかからないような措置を国は講ずるべきと考える。具体的には、普遍主義に基づく返済不要の給付型奨学金の創設を要請する。貧困の芽を早期に断ち切り、その連鎖を食い止めるべきだ。

その際、学ぶ意欲が無いにも関わらず、モラトリアム人間としてその期間を大学で過ごそうとする不適切進学者の増大を防ぐため、単位認定基準を厳しくする要件を設けることを提案する。そのことは、大学の教育の質を向上させ、投入した税金に見合った効果を得るためだ。給付型奨学金の真髄は、経済的な負担が大きすぎるため、学力や適性、学びたい意欲があるにも関わらず大学進学を断念する不適切不進学者を救うことにあると考える。

それは決して自己責任という言葉で矮小化又は一蹴できる問題では無い。日本国憲法第14条には「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とある。日本の教育機会は平等、公平、普遍的なものとして何人にも形式的には開かれている。だが、生まれた家庭環境という選びがたい社会的身分によって、経済的理由により大学進学を諦めざるを得ない人がいる。このような人々を取り巻く個人的及び社会的環境に目を向けながら変革する必要がある。

そのように社会全体俯瞰しながら、根本的な問題解決に努め、包括的な措置を講じなければ全くもって無意味なものになってしまう。双方が「個人の問題」「社会の問題」といずれか一方に押し付けて対立するのではなく、対話による解決を模索するべきである。両者は互いに責任転嫁を図り、事の本質から目を背け、問題解決から逃げているだけに思えてならない。

給付型奨学金創設に際して、その財源については、消費税や法人税の増税、富裕層に対する課税の強化等が考えられる。しかし、例えば、消費税を増税するのであれば、国会議員の定数や議員報酬の削減、国会のペーパーレス化による印刷費の削減等、国民に負担を強いる国会議員自らが「身を切る改革」を率先して行うべきだ。

そのような自助努力を積極的に講じようとせず、参院の議席を6増やしたことは、政治家が見据えるものは日本の将来では無く、選挙での当選であることが火を見るより明らかとなった。国民に過度な負担を押し付けるばかりではなく、為政者自らも財源を生み出すことにより、国民が増税への理解を深めるきっかけになると考える。

私は、何人も将来に希望を持てる社会を作るべきだと考える。日本の将来は現段階において既にお先真っ暗な状態にある。年金支給額の減少、少子・超高齢社会による社会保障費の配分が偏ることによってもたらされる世代間格差、青天井に膨れ上がる国債等、国民の負担は計り知れない。にもかかわらず更に負担を負わすことは国民を苦しめるだけだ。黒く塗った画用紙に更に黒く上塗りすると、そのうち穴が開く。即ち破滅を意味する。

日本の将来をこのように黒く染めるのでは無く、希望という名の彩りで鮮やかに染め上げて欲しい。その筆を選択する権利を有するのは主権者たる国民だ。このことを私たちは念頭に置き、不断の努力を持って永久の権利として守っていかねばならない。

丸山 貴大 大学生
1998年(平成10年)埼玉県さいたま市生まれ。幼少期、警察官になりたく、社会のことに関心を持つようになる。高校1年生の冬、小学校の先生が衆院選に出馬したことを契機に、政治に興味を持つ。主たる関心事は、憲法、安全保障である。