「金正男暗殺事件」から2年が過ぎて

2019年02月14日 11:30

北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の異母兄、金正男氏(故金正日総書記と故成蕙琳夫人の間の長男)が2017年2月13日、マレーシアのクアラルンプール国際空港で2人の女性から猛毒の神経剤「VX」が塗られたハンカチを被され、暗殺された事件から2年目を迎えた。そこで事件を振り返りながら、事件後の朝鮮半島の現状について考えた。

「金正男暗殺事件」が明らかにした北朝鮮の化学兵器の恐ろしさ(北朝鮮の化学工場の機材=ヤン・ガヨフスキー氏提供)

「金正男暗殺事件」に関与した4人の北工作員は事件直後、帰国したが、5人の北容疑者の名前と顔は明らかになった。1人の北容疑者が逮捕され、駐マレーシア北朝鮮大使館外交官の関与も暴露された。事件の実行犯、2人の異国女性が逮捕され、裁判で公判が始まった。暗殺計画を立案したのは北の対外工作機関「偵察総局」と見てほぼ間違いない。金ファミリー関係者の暗殺は金正恩委員長の承諾がなくては不可能だから、異母兄殺しの最終的責任は金正恩氏にあることは明らかだ。

北朝鮮は事件前の2月12日、国連安保理決議に反して中距離弾道ミサイル「北極星2」を発射した。その1日後、マレーシアで異母兄・金正男氏が暗殺された。金正恩氏は国際社会の批判を無視し、やりたい放題の蛮行を繰り返していたわけだ。

北朝鮮の朝鮮中央通信(KCNA)は同月23日、正男氏暗殺事件を初めて報じたが、「わが共和国公民が飛行機搭乗前に突然ショック状態に陥り病院に移送される途中で死亡したことは、思いがけない不祥事としかいいようがない」と報じただけだ。正男氏の名前も親族関係である事実も何も言及なかった。金正恩氏は叔父・張成沢氏を処刑し、異母兄・金正男氏を暗殺した。独裁世襲国家で3代目の金正恩氏は少なくとも2人の親族を殺したことになる。

KBSより引用:編集部

朝鮮半島ばかりか、世界を震撼させた「金正男暗殺事件」の1年後、具体的には、韓国で文在寅大統領が2017年5月10日に就任すると、南北融和路線が始まった。核実験とミサイル発射を繰り返し、猛毒の神経剤で親族を暗殺した金正恩委員長との間で3度の首脳会談が行われた。昨年6月にはトランプ米大統領と金委員長の歴史上初の米朝首脳会談も開かれた。朝鮮半島を取り巻く政情は一触即発の緊迫状況から一挙にデタントムードに入ってきたのだ。

トランプ大統領は「金正男暗殺事件」直後、「許されない行為だ」と批判したことなどとっくに忘れ、金正恩氏と今月27、28日、ベトナムで2度目の首脳会談を行う。

一方、韓国の変化は米政権よりもドラマチックだ。韓国政府は事件直後、正男氏の暗殺事件をいち早く批判し、「可能な限りの制裁に乗り出す」と表明する一方、韓国軍は南北軍事境界線付近に設置されている拡声器で事件を北の国民に知らせ、金正恩政権の残虐な行為を批判。韓国の尹炳世外相(当時)はスイス・ジュネーブで開かれる国連人権理事会とジュネーブ軍縮会議に出席し、北朝鮮の人権問題や化学兵器の脅威などを訴えた。それが文在寅大統領が就任すると事件の記憶は急速に消却され、民族の悲願、南北の再統一が大きなテーマに浮上してきた。

ここで確認しなければならない点は、白旗を挙げることを潔しとしない金正恩氏が強硬姿勢から対話路線に政策変更した直接の契機は圧倒的な軍事力を背景とした米国主導の対北制裁があったからだ。韓国の文在寅大統領が差し伸べた融和政策が金正恩氏の心を回心させたのではない。原因と結果を混乱させてはならない。金正恩氏が平昌冬季五輪大会での南北合同チーム、南北首脳会談の開催といった一連の融和政策に応じたのは、米国主導の対北制裁を解除させたいための戦略的選択だった。

「金正男暗殺事件」の衝撃は1年も続かず、朝鮮半島は今、南北再統一の絶好の時を迎えているという。母国の独裁政治を嫌っていた金正男氏は45歳で死去した。その死は全く無駄死だったのか。事件から判明した金正恩氏の狂暴性、非情な政策の記憶はどうしたのだろうか。人権弁護士出身の文在寅大統領と金正恩氏はホットラインで常にコンタクトを取る親密な関係になった。あたかも、「金正男暗殺事件」などなかったかのようにだ。

朝鮮半島の非核化、南北の再統一が進むことは歓迎すべきだが、「金正男暗殺事件」で明らかになった重要な点を忘れてはならないだろう。北朝鮮が生化学物質を武器として使用できる能力を有していることだ。北朝鮮がさまざまな種類の生物兵器を自家培養し、生産できる能力を備えており、2500~5000トンの化学兵器を貯蔵している。その保有量では、北朝鮮は米国、ロシアに次いで世界3位だ、という事実だ。

ちなみに、北には少なくとも5カ所、化学兵器を製造する施設がある。中国が恐れているのは両国国境近くにある北の化学工場だ。2008年11月と09年2月の2度、中国の国境都市、丹東市でサリン(神経ガス)が検出された(「中朝国境都市にサリンの雨が降る」2013年5月31日参考)。

また、看過できないことは、金正男氏が暗殺されたことから、海外に住む金ファミリーに大きな動揺が起きる可能性が考えられることだ。駐チェコの金平一大使(故金日成主席と金聖愛夫人との間の長男)や駐オーストリアの金光燮大使(故金日成主席の娘婿)はいずれも金正恩氏の義理の叔父に当たる。

話は少し飛ぶが、人は「忘却」という非常に人間的な機能を恣意的に発揮できる存在だ。人も外交官も、そして国家もその点で同じだ。

「記憶」は都合の悪いことを忘れ、都合のいいことを覚えておく“選択機能”を有しているといわれる。「記憶」の正反対の「忘却」も同様の機能を有していると考えて間違いないだろう。北朝鮮は過去、何度も「核兵器の破棄はあり得ない」と表明してきたが、文在寅大統領はそれも忘れて「北の非核化」という外交テーマを掲げる一方、南北の融和路線の障害となる「金正男暗殺事件」は忘却の彼方に送り、知らない顔をしている。

そこで忘却の彼方に追いやられた記憶を取り戻す。

「金正恩氏の異母兄・金正男氏が2年前の13日、マレーシアの国際空港内で猛毒の神経剤『VX』で暗殺された。その主犯は金正恩氏だった」


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年2月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。

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