ハングル史:福沢諭吉とバードが期待しすぎた韓国人の教養

高橋 克己

19世紀後半に世界を旅した英国人女流旅行作家イザベラ・バード・ビショップ(1831-1904)が朝鮮について書いた「朝鮮紀行」の中にハングルに触れた文章が二箇所ある。これを軸に福沢諭吉らのハングルへの貢献についてお復習いしてみたい。

Wikipediaより:編集部コラージュ

長い引用になるがバードの記述を掲げる。(太字は筆者)

朝鮮の言語は二言語が入り混じっている。知識階級は会話の中に漢語を極力交え、些かでも重要な文書は漢語で記される。とは言えそれらは千年以上昔の漢語であって、現在清で話されている言語とは発音がまるで異なっている。朝鮮文字である諺文「ハングル」は、教養とは漢籍から得られるもののみ、とする知識層から全く蔑視されている。朝鮮語はアジアで唯一、独自の文字を持つ言語である点が特色である。

もともと諺文は女性、子供、無学な者のみに用いられていたが、1895年1月、それまで数百年にわたって漢文で書かれていた官報に漢文と諺文の混じったものが現れ、新しい門出となった。これは重要な部分を漢字で表しそれを仮名で繋ぐ日本の文章の書き方と似ている。更なる刷新は独立・国政改革宣告文が漢文、純諺文、漢文諺文混合の三種類の文体で公布されたことで今では漢文諺文混合体は法令、公式文書、官報に正式に使用されている。一般に勅令及び外国代表への伝令は依然、漢文に固執している。

時に純諺文を用いることも含め、政府の混合文体使用により朝鮮語が認知されたこと、官僚候補生の適性をはかる試験「科挙」において漢文試験が廃止されたこと、新しい朝鮮の新聞「独立新聞」では専ら一般大衆の文字が使われていること、大団体である外国人宣教師達が朝鮮語を重要視したこと、諺文で書かれた学術書や文学書が徐々に増えてきたことは、朝鮮人の愛国心を強めるばかりでなく、自国の文字なら大抵は読むことのできる一般大衆を西洋の科学と考え方に接触させるのに役立っている。(32頁)

1894年7月、大鳥氏は官報を鮮明な活版印刷で発行すると言う有益な刷新を行った。そして翌年1月には漢字と「無知な者の文字」とされていた諺文の混合体が官報に用いられ一般庶民にも読めるようになった。当時は軍国機務処の決議が官報に掲載されること以外、めぼしい改革は行われなかった。その後日本の官報に近づくような改革がなされ、官報の重要性と言う点では失ったものより得たものの方が大きい。(475頁)

頁を付した通り二つは冒頭部と最後部の別章の記述だが、日本の関与は後者で駐韓公使大鳥圭介が官報を活版印刷で発行したと書いているのみ。ハングルの普及と地位向上に福沢諭吉と弟子の井上角五郎が尽力したエピソードには触れていない。バードもそこまでは知らなかったか。

またバードが

1895年1月・・官報に漢文と諺文の混じったものが現れ、新しい門出となった

と書く件は彼女の錯誤で、正しくは後述するように「1986年1月に・・漢文と諺文の混じった政府が発行する新聞が現れ、新しい門出となった」とすべきだろう。

バードは「諺文で書かれた学術書や文学書が徐々に増えてきたことは、朝鮮人の愛国心を強めるばかりでなく、自国の文字なら大抵は読むことのできる一般大衆を西洋の科学と考え方に接触させるのに役立っている」と書く。

角五郎の孫、井上園子は「井上角五郎は諭吉の弟子にて候」で、諭吉が1883年の角五郎宛の手紙に「日本にても古論を排したるは、独り通俗文の力とも申すべく、決して等閑にみるべからざるものにござそうろう」とハングル使用の重要性を綴ったことを書く。

通俗文とは漢字仮名交じり文のこと。諭吉は、漢字仮名交じり文が明治以降の日本のさらなる民度向上に寄与した如く、漢字ハングル交じり文にも朝鮮近代化の役割の一端を担わせようと考えていた。つまりバードの書いたことこそが諭吉の狙いだった。バードが諭吉に触れていたら、と思うと少し残念。

またバードが、「重要な部分を漢字で表しそれを仮名で繋ぐ日本の文章の書き方と似ている」と書きながら、ハングルを「アジアで唯一の独自の文字を持つ言語である」としているはちょっとおかしい。ハングル考案を500年も遡る10世紀頃から普及したとされる仮名文字は日本の偉大な発明だ。

諭吉や西周らが苦心して訳出した西洋文献の漢字仮名交じり書が日本の近代化に果たした役割の大きさは計り知れない。また日本がロシアに勝って急増した中国や朝鮮から日本への留学生が、それら漢字仮名交じり書を通して西洋を学び、祖国に戻って指導的役割を果たしたことは歴史的事実だ。

諭吉や西らが工夫した和製漢語は今では中国や韓国で(彼らがそうと自覚しないまま)広範に使われている。朝鮮通の豊田有恒は「韓国が漢字を復活できない理由」で「日本統治時代、日本製の漢語が大量に流入する。韓国で使われた漢字熟語の七、八割は和製漢語なのである」と書いている。

参考に「韓国国定高校歴史教科書1999年版」のハングルの解説も見てみる。

愛国志士は、日帝の過酷な弾圧に対抗して民族文化の守護運動を粘り強く展開した。1919年の3.1運動以後、李允宰らは、国文研究所の伝統を受け継いで朝鮮語研究会を組織して国語研究に活力を吹き込んだ。彼らはハングルの研究と共に講習会、講演会を通してハングル普及に努力し、ハングル常用を奨励することによってハングルの大衆化に大きく寄与した。一方、朝鮮語学会(朝鮮語研究会の後身)は朝鮮語大辞典の編纂を試みたが、日帝の妨害で成功できず、日帝によって独立運動体と見做され、会員は逮捕投獄されついに強制的に解散させられた。この様なハングル普及運動は日帝の朝鮮語・朝鮮文の抹殺政策に正面から対抗した抗日運動であると同時に民族文化守護と言う側面で重要な意義を持った。

予想された記述でこれも歴史の一側面だろう。が、諭吉らのエピソードのほんの一端でも記述するなら、僅かかも知れないが韓国高校生の知識もまた心も広がるのではあるまいか。その意味では教科書の国定化によって偏向の是正を試みた朴槿恵政権が倒れたことを筆者は少し残念に思う。

片や台湾。李登輝政権は1997年に「認識台湾」と題した台湾国民中学歴史教科書(訳本「台湾を知る」)を編み、従来の大陸史中心の内容を台湾の歴史に改めた。例えば日本統治時代の章を繰れば、武装抗日や総督専制に触れる一方、経済や教育の発展の基礎が築かれたこともきちんと併記されている。

さて、朴泳光や金允植ら朝鮮開化派の弟子に対しても、かねてことある毎にハングルの使用を説いていた諭吉の思いが通じたか、高宗は1885年1月に金允植らの上奏を容れ、休刊していた「漢城旬報」をハングルも使って再興するよう内命した。

その報を聞くや諭吉は「さっさと自費でハングルの活字まで築地の工場に注文してしまった」そうだ。85年11月活字や印刷機類を携えた角五郎は漢城に戻る。こうして高宗の内命から一年後の86年1月、漢字ハングル交じり文による「漢城週報」(漢城旬報の後継)第一号はようやく刊行された。

だが、今日の韓国は漢字を廃しハングル一辺倒。豊田は前掲書で、一見して理解できる表意文字の漢字をやめ、表音文字のハングルだけにして同音異義語が氾濫していることなどを挙げ、「韓国人も教養の低下、語彙の貧弱化、言語の伝達の不足など、多くのマイナスを抱え込んでしまった」と書く。

「過ぎたるは猶及ばざるが如し」、諭吉の先見の明もここまでは及ばなかったようだ。

高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。