中国が空母の名前に込める日本への怨念

高橋 克己

横須賀で生まれ育った筆者は子供の頃に何度も米軍基地に入ったことがある。父がそこの船舶修理部で働いていたからだ。親の職業欄には「駐留軍要員」と書き込んだし、ボウリングもコカ・コーラもそこが初体験だった。糸で吊るされたピンを裏で日本人が揃えるのが見え、コークはトニエン(Twenty Yen ≒ 5cent)だった。

潜水艦にも乗ったことがある。が、何といっても壮観だったのは航空母艦だ。確か「レンジャー」といった。何しろ小学校の校庭二つ分ほどの広さ、大人でも驚くくらいだから十(とう)に満たない身には途方もない。飛行機を格納庫から甲板に揚げる巨大エレベータの迫力もすごかった。

今の、ここを母港にする米第七艦隊の空母は「ロナルド・レーガン」だ。名前からして何とも頼もしい。民主党オバマ政権の頃は「ジョージ・ワシントン」だった。習近平はこれが定修で半年かそこら横須賀を離れていた隙に南シナ海の岩礁を埋め立て始めた。が、オバマはそれを傍観した。

1979年に中国を承認したカーターといい、90年代半ば台湾への大規模演習を許したクリントンといい、いったい米民主党は中国に甘い。百年以上前から米国の親中派はほぼイコール反日派だ。それは米国の指導層の多くの父祖が中国で宣教師だったことと中国国民党の国際宣伝が巧みだったからと筆者は思っている。

中国海軍の空母「遼寧」(Wikipedia:編集部)

そこで中国空母の話になる。中国初の空母「遼寧」は当初「施琅」と呼ばれていた。Wikipediaには「日本など外国メディアでは…“施琅”と呼ばれることもあったが…2011年4月27日には、国務院台湾事務弁公室が“施琅”の名称を否定している」とある。が、Weblio辞書で「施琅」を引くと「ワリヤーグ」の別名として「施琅」と記されている(2012年9月25日更新分)。

艦名「遼寧」で2012年9月に立派に就航したのだから、当初の呼称など何故わざわざ否定するのだろうかとつい訝ってしまう。我が国のパルゲンイな某新聞や某政党ではないが、それが左といえば右が正しく黒といえば白が正解といわれる式に、中国が否定すればするほどそれが実際はそうに違いない、といつの間にか筆者も思うようになってしまった。

そこで「施琅」、施琅(1621-1696)は明末清初に中国で活躍した軍人だ。元は鄭芝龍(1604-1661)という台湾海峡を股に掛けた大海賊(一部研究者は非合法交易集団などという)の右腕だった。芝龍は福建と台湾と日本にそれぞれ邸を構え、平時には交易、時に応じては海賊という日常だった。当時の福建沿岸部や浙江舟山諸島や台湾の台南・淡水などは海賊の巣窟で、倭寇やポルトガルの海賊なども割拠していたらしい。

鄭成功(Wikipedia)

芝龍は長崎平戸で日本人の田川マツを娶り福松という男の子を儲けた。福松は長じて国姓爺鄭成功(1624-1662)となる。芝龍は清に勢いありとみて明(1368-1644)に見切りをつけ、施琅もそれに従った。が、母マツと共に福建に戻り成人していた成功は、漢族としての誇りから清に与せず父芝龍と袂を分かち、マツも夫の離反を嘆じて自害した。南明の隆武帝は成功を気に入り明王の姓「朱」を授けた。これが国姓爺の由来。

成功は反清復明・排満興漢を掲げて清に抵抗するも敗れ、兵ら2.5万と共に台南へ移った。彼はオランダ人に大陸から苦力として移住させられた漢族を糾合し、1662年にオランダを駆逐して鄭氏政権を建て大陸反攻を試みた(台湾に逃げた当初の蒋介石を彷彿させる)。これに対し清は「遷界」と「海禁」で台湾封鎖を強化した。が、却ってこれが密貿易や反清漢族の密入国を助長した。

鄭成功の勢力範囲(Wikipediaより)

ところが1662年に成功が病死した後、政権を継いだ息子鄭経も1681年に死亡し、その子克塽の代になると清の攻勢が増す。そこで施琅の出番となる。清の康熙帝は芝龍の部下として台湾を知悉していた施琅を福建水師提督に据え鄭氏政権の討伐命令を下す。施琅は1683年遂に克塽を降し、ここに鄭氏は22年間の短い台湾統治を終えた。

康熙帝は台湾を福建省の一部として初めて清の版図に入れたが、明と同様に清も澎湖諸島は重要視したものの台湾は「化外の地」としており、領有直後には放棄説もあった。が、海賊上がりで海に精通し台湾の重要性を良く知っていた施琅は康熙帝に次のように説いた。

台湾は一見、海外のほんの一孤島に過ぎないようであるが、その実は南シナ沿岸を守るに欠くべからざる外郭の地位を占めている。一度これを失えば脱走兵や海賊、流民らの巣窟となり、或はオランダ人が再度占拠することになろう。そうなれば大陸沿岸の諸省は安全無事を期することが出来なくなる。

なんという卓見。三百十数年後の現在にもそのまま当て嵌まりそうではないか。斯くして台湾は福建省の一部、台湾庁となった。

筆者は中国初の空母に「施琅」と名が付いたと初めて聞いた頃にちょうど台湾に住んでいたし、偶さか上述のエピソードも知っていたので、なるほど中国らしいと膝を打った。さては台湾統一を邪魔する米第七艦隊に対抗して台湾海峡を制圧しようという魂胆だな、と思ったからだ。

ところがしばらくすると「遼寧」に名前が変わった。遼寧省といえば日清戦争で日本が台湾と共に割譲を受けたものの独仏露の「三国干渉」で返還させられ「臥薪嘗胆」を誓った遼東半島がある。その後日本は日露戦争に勝って改めてそこを租借し、それは先の終戦まで続いた。こうした経緯があるので筆者は艦名の変更を聞き「中国め、矛先を台湾から日本に向け変えたか」と思った。

すると二隻目の空母の名は「山東」だという。松坂大輔ではないが、自信が確信になった。山東省といえば三国史の昔から沃土と知られ膠州湾に青島という良港がある。第一次大戦に日英同盟の誼で参戦した日本は英国軍と連合して膠州湾の独軍を駆逐した。パリ会議で引き継いだドイツ権益を「対華二十一ヵ条要求」で延長拡大し、反発する中国に対し1926年と28年の二度出兵した因縁のある土地だ。

「施琅」を改めて「遼寧」、そして「山東」と来れば、そこに日本に対する中国の怨念が込められていると思わない方がどうかしていよう。もし次やその次が「南京」や「重慶」なら確定だ。両方海に面してはいないが長江はほぼ海。日中戦争で日本が無差別爆撃した重慶だって歴とした港町だ(さすがに空母は付けられまいが)。

尖閣や沖縄、日本の守りは果たして万全か…。

高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。