東日本大震災:あれから8年 「忘れてる」

2019年03月12日 14:00

今年も3月11日14時46分がやってきた。あの日、新聞社の編集委員と、大学の先生と赤坂のホテルのカフェで打ち合わせをしており。「あ、揺れた」と思ったら、大変に長く、強く。

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あの写真がライブドアブログのファイルに残っていたので、何枚か貼っておく。

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携帯はつながらなかったけれど、Pocket WiFiは実によくつながり。妻とはメールのやり取りを。新橋まで歩いて移動し、合流。烏森神社近くの小料理屋で飲んで時間を潰し。復旧した銀座線で浅草まで移動し、そこから寒い中、50分歩き帰宅。ぎゅっと抱き合ったような。

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実は宮城県仙台市生まれで。生まれて10ヶ月で札幌の実家に戻ったので、全く記憶はありませんが。思うところはある。

被災した当時、僕は36歳で。自分と社会の未来を考えるキッカケの一つだった。会社をやめ、大学院に入り直し。子供を産もうと思ったのも(時間はかかりったが)。良くも悪くも専門分野以外に関しても発言しようと思ったのも、震災がキッカケ。

震災から2ヶ月過ぎた頃、日経で海老坂武先生のインタビューを拝読し。大学時代、フランス語でお世話になり。ぶっちゃけ、講義はいい加減でぶっきらぼうで休講も多かった。彼からは未だに、知識人としてのあり方を学んでいる。

サルトル的な発想 海老坂武さんに聞く:日本経済新聞

「僕はサルトル派ですから立場を明らかにしたいと常に考えています。そこで情けないと思い、悔やんでいるのは今回の福島原発事故です。僕は原発反対だったのに、過去に原発を批判する文章を一つも書かず、発言も全くしてこなかった。原発に関しての知識も勉強も不十分だから発言しなかったのですが、それは間違いだった気がします。問題を専門家だけに委ねていてはだめだ。素人は素人なりにここまでは言えるということがあると思うんです」

「現代は知識人とは何かが問われています。サルトルが強調していたのは、自分の研究の目的は何かを、別の視点から見る必要性でした。別の視点で専門分野を眺めるときに、人は知識人になるという言い方をしています」

さて。

当然、各種メディアは特集を組んだわけだが。「忘れてはいけない」というメッセージが発信される。このメッセージの本質は何だろうか。実は、忘れているからではないか。避難者はいまだにいるし、原発の根本的な解決には至っていないのにも関わらず。

東日本大震災だけでなく、その後も大きな自然災害はあった。平成が終わろうとしている今、「平成は平和だった」「平和に成ったから平成」との声もあるが、世界は平和ではなかったことも忘れてはならない。

震災をキッカケに防災グッズを揃えたが、非常食の賞味期限対応など、十分ではないこともあり。子供が生まれたので、それによる変更も十分ではない・

というわけで、「忘れるな」というメッセージの中には、「忘れている」「だから、忘れるな」という意味もあるのだと思う。

忘れてはいけない。


編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2019年3月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。

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常見 陽平
千葉商科大学国際教養学部専任講師

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