文大統領に見る「政教分離」の極致

2019年04月09日 11:30

一抹の不安を感じながら書き出した。コラムの「見出し」が先ず浮かんできたから、そのタイトルに相応しい内容を模索しながら書き出したからだ。

コラムを書く場合、最初にテーマが浮かび、その考えを展開させるために事実を集めながら、論理を展開させ、まとめていく。そして最後にその内容にマッチした「見出し」を考えるが、今回はタイトルが先に浮かび、その「見出し」を捨てるのはもったいない気がしたため、「見出し」に合致した内容を考え出した。内容が支離滅裂になる恐れはあるが、「見出し」に敬意を表しながら書き出した。当方の頭に浮かんだ「見出し」とは、「文在寅大統領に見る『政教分離』の極致」だ。

昨年バチカンを訪問した文在寅大統領(2018年10月17日、サンピエトロ大聖堂で、韓国大統領府公式サイトから)

文大統領は金正淑夫人と共に敬虔なカトリック信者だ。人権弁護士として歩んできた年月は神への信仰が支えとなり、苦しい時の励ましともなっただろう。イエスの「山上の垂訓」に心を躍らせ、人権を蹂躙されてきた貧しい人々を救済するために献身的な努力をしてきた日々だろう。

青瓦台(大統領府)の住人となってからは、文在寅大統領は心の中に温めてきたライフテーマ、南北融和政策、南北再統一を持ち出して政治の世界を歩みだした。文大統領の信仰はその時まで常に同伴し、話かけ、必要ならばイエスの教えに基づいて軌道修正を求めてきたこともあっただろう。そのイエスの教えのエッセンスは愛と許しだ。文大統領はその教えを守りながら歩んできたはずだ。

しかし、文大統領はこと日本との関係になると人が変わったようになる。前任の朴槿恵大統領以上に激しい反日政策を次々と繰り返し、韓国のメディアも認めるように、韓国の歴史上、最悪の日韓関係を生み出してしまったのだ。その最大の責任者は文在寅大統領だ。

文大統領の対日政策にはイエスの愛や許しという教えの痕跡は全く感じられない。文在寅大統領からはイエスを冒とくし、罪の女に石を投げ殺そうとするパリサイ人を思い起こさせる(「カトリック信者・文大統領の『信仰』」2018年12月11日参考)。

それでは文大統領は青瓦台入りしてから神への信仰を失ったのだろうか。そんなことはない。昨年10月18日、バチカンを訪問し、フランシスコ法王を謁見している。その時の文大統領の表情は喜びに溢れていた、と少なくとも当方はそう感じた。ローマ法王に北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長からの訪朝招請のメッセージを伝達した時、文大統領には歴史的な使命を果たしている、といった高揚感さえ漂っていたはずだ。

文大統領は神への信仰を捨てていない。むしろ信仰の炎はさらに燃え上がっているはずだ。文大統領はバチカンのサンピエトロ大聖堂でパロリン枢機卿(国務長官)が傾聴する中、南北分断国家の悲しみを神の悲しみまでに昇華しながら熱っぽく語った。

その文氏はいったん、ことが対日問題となると人が変わる、というより神への信仰が消えていくのだ。「積弊清算」を掲げ、過去の日本の植民時代を徹底的に批判し、日本と連携した国民を「親日派分子」として制裁する。その政策には「敵を愛せ」と語ったイエスの教えの痕跡はまったく感じられない。日本の過去の罪状を見つけると直ぐに石を投げ始める。

すなわち、文大統領は神への信仰を維持する一方、神の教えとは正反対の言動を躊躇せず、相手の罪を暴き、糾弾しているのだ。これこそ「政教分離」の極致といわずにどのように表現できるだろうか。もし、神への信仰を捨てたとすれば、彼は良心の呵責も感じることなく、相手を批判、中傷できる。文氏の場合、そうではない。神への信仰を持ち、日曜の礼拝に参加する一方、青瓦台に一歩足を踏み入れると、人が変わるのだ。

韓国大統領府FBより(写真は4月8日、編集部)

「政治の世界」と「信仰の世界」を完全に分離し、前者は「公」であり、後者は「私」の世界と分けて棲み分けることを「政教分離」とすれば、信仰を持つ政治家は程度の差こそあれ「政教分離」を実践しているが、文氏のそれは中途半端な「政教分離」ではなく、その極地を行っているのだ。

神への信仰とそれとは相反する世界が文氏という同一の個体の中で存在していることになる。文在寅大統領は明らかに矛盾を抱えている存在であり、遅かれ早かれ分裂の危機の運命を迎えざるを得ないといえる。国がそうであった場合、その国は解体するか、革命が生じるだろう。個人の場合、その人は分裂し、消滅せざるを得なくなる。韓国と文氏を取り巻く現状はそのような状況に近づいてきているのを感じるのだ。

韓国中央日報日本語版8日付に李夏慶主筆 の「まだ日本は敵なのか」というタイトルのコラムが掲載されていた。

「日本の不法植民支配は厳然たる事実であり、堂々と直視しなければいけない。しかし解放後の善意と寄与を無視して悪行ばかり取り上げれば、相手の心は閉じられるだろう。日本と命をかけて戦ったが、植民地時代が終わったため良い隣国として過ごそうという寛容と実利的な視点を文政権も持たなければいけない。現実に目を閉じた善悪の二分法では天国の扉を開くことはできない」

文大統領に必要なのは、善・韓国、悪・日本といった善悪二分法の世界から脱皮し、信仰生活で培った寛容と許し、そして愛の世界を青瓦台の世界でも実践していくことだ。換言すれば、日本へのルサンチマンから決別することだ(「文在寅大統領のルサンチマン(怨恨)」2019年1月26日参考)。

ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年4月9日の記事に一部加筆。

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