イエスは本当に「復活」したのか

世界のキリスト教徒にとって「復活祭」はクリスマスより重要な教会祝日だ。イエスが十字架で亡くならなかった場合、復活祭(イースター)はなく、その生誕日だけが盛大に祝われたはずだった。しかし、イエスはユダヤ人社会から見捨てられ、ゴルゴダの丘で他の2人の囚人と共に十字架で亡くなり、その3日後、復活し、ばらばらになった弟子たちを再び呼び集め、その教えをローマまで伝えていった。そしてローマ帝国の迫害を乗り越え、西暦313年にコンスタンティヌス帝のミラノ勅令によりキリスト教は公認され、世界に広がっていった。

▲「十字架のイエス」(2013年3月31日、バチカンの復活祭)

▲「十字架のイエス」(2013年3月31日、バチカンの復活祭)

キリスト教を看板とした宗教グループは300を超えるといわれているが、十字架の死後3日目に生き返った「復活イエス」を信じているという点で大きな相違はない。新約聖書「コリント人の第1の手紙」15章でパウロは「死が1人の人によってきたのだから、死人の復活もまた、1人の人によってこなけれなならない」と述べ、主イエスが十字架で亡くなり、3日後に生き返ったことを信じる信仰告白がキリスト者の証というわけだ。

英国のウィリアム・シェイクスピアの戯曲「ハムレット」の中で、デンマーク王子ハムレットは、「死の世界から戻ってきた者は誰もいない」と嘆いたが、キリスト者はイエスが死から復活したと信じている。しかし、時代が進み、人間が1度死んだ後、再び生き返ると信じる人は少なくなってきた。それはキリスト者の世界でも同じだ。

イエスの十字架の死後3日目にイエスの墓を訪ねたマグダラのマリアは「墓には誰もいなかった」ことに驚き、そこにいた天使からイエスの復活を聞き、弟子たちに目撃した内容を報告する。そこから「復活のイエス」という話が生まれてきた。

「復活」について、伝統的な受け取り方は、①肉体復活説、②霊的復活説の2通りがある。最近は、イエスは十字架で死んだのではなく、仮死状況にあっただけけだ、という③仮死説が聞かれる。

①は21世紀の今日、多くの人々はハムレットより「肉体復活」に対して懐疑的だから、聖パウロのように肉体が死後、蘇ると信じることは容易ではない。だから、信仰としてイエスの復活を信じるが、肉体そのものの復活にはやはり懐疑を払しょくできない。

②の場合は科学世界から批判を受けることを避けることができるメリットがある。イエスを信じる者の前に十字架で亡くなったイエスが霊的に現れたり、夢の中で出てくるからだ。霊的復活は信者にとって常にある現象だ。

③は「科学」と「宗教」の矛盾といった葛藤はなく、非常に受け入れやすい説だ。イエスは十字架上で仮死状況に陥ったが、3日後、仮死状況から目を覚まして、立ち上がって墓から出ていったというわけだ。独文豪のヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテも仮死説を信じていた1人だ。

ちなみに、ドイツの歴史学者ヨハネス・フリード氏は、「ゴルゴダの丘で死者はなかった」というタイトルの本を出版している。副題は「生き延びたイエスを探せ」だ。フリード氏によれば、仮死状況から目覚めたイエスは天に昇天したのではなく、エルサレムから追放された後、その行方は分からなくなったという。エジプトに行ったとか、東シリア、インド、カシミール等に行ったなど、様々な憶測が流れている。

キリスト教では神が受肉してイエスとなったと考えるが、「神が人間になった」という教えは一般の人には信じられない。だから、キリスト教の矛盾を克服するために「仮現説」(Doketismus)がでてきた。イエスの身体性を否定する教義で、イエスが生まれ、十字架で死んだというのは人の目にそのように映っただけで、実際はそうでなかったという考えだ。その思想の背後には、「イエスは肉体をもつことはなく、霊的な存在」という考えがある。キリスト教会では異端視されてきた。

使徒ヨハネは「ヨハネの第1の手紙」4章で「イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、全て神から出ているもの」と述べ、神の受肉説を擁護している。また、十字架にかかって死んだのは、イエスに代わって十字架を背負ったキレネのシモンだったという説もある。それらは、「神の受肉」という教義を何とか信仰的に解釈しようとしたキリスト者たちの思索の所産ともいえるかもしれない。

イエスの教えを信じる弟子たちを迫害してきたサウロがダマスコへの途上、イエスに出会い、目が見えなくなった後、回復し、イエスの証人となり、パウロと呼ばれるようになったという話は有名だ。その聖パウロは、「イエスは十字架の死後、3日目に復活した」ことを強調し、それを世界に広めていった張本人だ。キリスト神学は基本的にパウロ神学と呼ばれている。

ちなみに、宗教改革者マルテイン・ルター(1483~1546年)はイエスの十字架上の受難によって人間の罪が解放されたという「十字架の神学」を主張した。一方、カトリック教会ではイエスの十字架上の受難より、十字架から復活したイエスの勝利こそ称えるべきだという「栄光の神学」により力点を置いている。換言すれば、前者は「同伴者としての神」を、後者は「全能の神」とでもいえるかもしれない。

19日は聖金曜日だ。イエスが十字架にかかった日に当たる。その後3日目にイエスは復活した。33歳のイエスはなぜ十字架にかからざるを得なかったか。なぜ、イエスは「私はまた来る」と再臨を約束されたのか。2000年前、「復活イエス」から始まったキリスト教には多くの謎が未解明のまま取り残されている。

ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年4月19日の記事に一部加筆。