平成の記憶:不動産融資総量規制がなければバブルは崩壊しなかったのか

2019年04月29日 06:00

今、「総量規制」といえば2010年に施行された貸金業法の規制を思い浮かべる人が多いだろう。これは、多重債務を防ぐために年収の3分の1を超える個人への貸付けが貸金業法の改正によって原則禁止されたものだが、今回触れるのは1990年に行われた旧大蔵省による行政指導の「総量規制」である。

写真AC:編集部

バブル期とは一般的に1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までの51か月間を指す。もちろん、実際の景況感や資産価格の値上がり期については意見が分かれるだろう。

好況感と資産価格がピークの1990年3月27日、当時の大蔵省銀行局長から不動産融資総量規制に関する通達が全国の金融機関に発せられた。異常な投機熱を冷やすため、土地取引に流れる融資の伸びを抑え、地価上昇を抑制する狙いだった。

結果的にこの行政指導は見事に機能し、不動産の価格上昇はピタリと止まった。

いや、止まったと感じたのは「感覚的」なものであり、実は不動産価格は即、下落に転じたのである。

冷静に考えれば当然なのだが、銀行が不動産関連の融資を止めれば、いくら購入意欲が強い顧客でも「買いたくても買えない」状況に陥るし、「売りたくても売れない」物件が市場に溢れるのも自明の理だ。

結局、売りたくても売れない物件は「不良債権化」への道を突き進むことになる。

転売用に売買された不動産の値下がりだけではなく、景況感の急激な悪化がもたらしたデフレによって、実需用(自宅用不動産など)の不動産さえ、正常債権から不良債権へと変貌を遂げてしまったものも少なくない。

バブル期の地価抑制施策は総量規制だけではない。1974年に制定された国土利用計画法は、土地取引の規制等をすることができる法律だが、バブル期(1987年)に地価抑制を目的として法改正が行われ、「監視区域制度(届出制)」が創設された。

この「監視区域内」で一定面積以上の土地取引を行おうとする場合は、都道府県知事に事前届け出をしなければならず、その取引価額に対して、都道府県知事が取引中止の「勧告」を行えるというものだ。あくまで「勧告」なので、その取引自体を法で規制するものではないが、これについても金融機関に対して「融資対象」を国土利用計画法による取引中止を勧告されていない「不勧告通知」を受けた取引に限定するようにという行政指導がなされたのである。

政府は国土利用計画法で規定されている、土地取引の直接的な規制につながる「規制区域制度(許可制)」については「これまで指定された区域は存在しない」と胸を張るが、表面上は取引の許可が不要で、届出制である「監視区域制度」であっても、取引中止の勧告を受けた場合、融資が実質的に禁止されればその取引は成立しないのだから、ここでも実質的な「融資の規制」が行われたのは疑いようがない。

銀行に対する行政指導としての「不動産総量規制」や、国土利用計画法による「実質的な融資規制」によってバブルは一気に崩壊する。

では、この二つの「不動産に対する融資規制」がなければ、バブルは崩壊しなかったのだろうか?

その答えは、1987年8月から2006年1月までアメリカ連邦準備制度理事会(FRB)議長を務めたアラン・グリーンスパン氏の言葉にヒントがあるかもしれない。

グリーンスパン氏は2002年に「バブルは崩壊して初めてバブルだと分かる」という言葉を残した。

この言葉が一定程度正しいとすれば、当時の日本政府もバブル崩壊を意図して地価抑制政策をとったわけではないはずだ。つまり、当時の政権の目的は「バブル退治」ではなく「地価上昇の抑制」そのものだったのだ。

そう考えれば、当時の政府が行った不動産融資規制が地価抑制に薬効を示さなくても、世論次第ではあるが「実際に地価上昇が収まるまで」は、矢継ぎ早に相応の施策がとられた可能性が高いだろう。禁じ手ともいうべき土地取引の許可制(国土利用計画法の規制区域指定)さえ現実味を帯びていたかもしれない。

地価下落がバブルを崩壊させたとすれば、地価を抑制することが命題となってしまっていた当時の日本においては、仮に総量規制がなくてもバブル崩壊は不可避だったに違いない。


高幡 和也 宅地建物取引士
1990年より不動産業に従事。本業の不動産業界に関する問題のほか、地域経済、少子高齢化に直面する地域社会の動向に関心を寄せる。

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