平成とはどんな時代だったのか?

岡本 裕明

このところ、平成を振り返る、といった特集が目立ちましたが、多くの方は自分なりの平成の時代の定義があると思います。私は平成のほとんどを海外で過ごす結果となり、まさに「外から見る平成」でありました。どんな時代だったか、私の感想は明治維新と終戦が外からの衝撃による大変革であったのに対して平成は中からの矛盾や不満など鬱積したものが爆発し、大変革がおきた時代だったと思っています。

写真AC:編集部

今思えば失われた10年とか15年、はたまた20年といった平成の暗いイメージはこの大変革を起こしていた時だったと考えればさほどネガティブにならなくてもよいのかもしれません。

明治維新の際、明治政府が出来て突然近代日本が出来上がったという印象が強いのですが、そんなことは全くありませんでした。弱小の政府であり、薩長と朝廷が手を結んだものの、財政も人材も脆弱、おまけにキーパーソンたちは長期の外遊で国の中は空っぽであった時期もありました。そんな時、西郷隆盛の征韓論から始まった西南戦争を経て西郷が亡くなり、そのあと、大久保利通も西郷を追うように亡くなります。このあたりからようやく明治政府は落ち着き始めたというのが実態でしょう。学校の教科書では全くそのあたりのニュアンスは教えません。

終戦後もそうでしょう。闇市があり、殺人事件や暴力事件が頻繁に起きました。国鉄を背景にした三大事件(下山、三鷹、松川事件)などもありましたが、こちらが収まり、日本が再成長の道筋を見出すのはGHQの管理下から外れたあとしばらくたってから、であります。

平成も昭和の最後を飾るバブル景気で壊れた日本の再構築に時間がかかっただけでそれが無為な時間であったわけではありません。

日本を内面から変えるのは外敵衝撃よりも大変だったと思います。それはいくつもの矛盾や変革が時間差で訪れたこともあるでしょう。個の時代になり、軽薄短小、少量多品種といった消費の変化、契約社員制度の登場や終身雇用制が大きく変革した雇用の在り方、「インフレさん、さようなら、デフレさん、こんにちは」もありました。大企業一辺倒から新興企業や若者の起業が新たな起爆剤となりました。少子化となったのは人々の価値観の変化が背景にあったことは否めません。高齢化の波はジワリと攻めてきて、この傾向は当面、収まることはありません。

海外から見ると日本の存在が突如小さくなりました。中国の躍進もありましたがそれ以上に日本が内向的になってしまい、Japan Passing とかJapan Nothing と皮肉られました。

これらが全てネガティブだったのかといえば案外、次の時代に向けた「もがき」なのではないかと思います。日本しかできない技術、考え方、食文化や伝統、開発能力はいまだに健在であり、その新たなる成長に向かっています。

今、テレビを見ない若者が相当増えています。その代わり多くの若者が自分の好きな情報の深堀をし始めています。10年もすればそれらが社会にどのような変革をもたらすでしょうか?画一的な日本人から個性の日本人になるかもしれません。濃紺のスーツを着たサラリーマンが電車から吐き出されるシーンは減ってくるのかもしれません。

そういう意味では平成とは日本が令和をはじめとする次の時代への飛躍に向けた大事な基礎作りの時代だったと考えればとても前向きな30年だったと思えないでしょうか?

ただ、思い出に浸っているばかりでは次がありません。明日に迫った新しい時代の抱負は何なのか、どこに向かっていくのか、その目標づくりはきちんとした方がよいと思います。ただやみくもに令和の時代を迎えるのではなく、令和はこういう時代にしたいという希望はあるべきでしょう。そのような意見はまだまだ少ないと思います。我々はどんな時代をむのか、それをどう築くのか、じっくり考えていこうではありませんか?

10連休、遊びほうけるのも結構ですが、一人ひとりがちょっとでも考えてもらえるとよいのではないでしょうか?

では今日はこのぐらいで。明日のブログでは令和の時代を考えてみます。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2019年4月30日の記事より転載させていただきました。