今更ですが、読書の価値をもう一度考えましょう。

本屋が減ってきています。理由はアマゾンでお手軽に注文できるから、と言われていますが、それよりも読書人が減っているのが原因だろうと思います。なぜ、読書しなくなったか、といえばスマホいじりにその時間をとられてしまったことと調べ物は図書館ではなく、スマホという新しいスタイルが平準化したからでしょう。

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大人になって読書する習慣がある人は4割ぐらいとも言われています。例えば話題本があって普段読書しない方々が飛びついてそれを購入しても300ページもの小説なりハウツーものの書物を読破するのはかなりしんどいことだと思います。集中力が維持できず、読んでいても字面を追っているだけで頭に文章がインプットされなくなるからです。多分、購入するだけで満足する人(いわゆる積読<つんどく>)や、ちょっと読んでギブアップされる方は相当多いと思います。

私は過去年間50冊だけ読むと決めています。年によって60冊ぐらいの時もありますが、最低50冊は読みます。グーグルドックのマイライブラリーで管理していますので2011年からはすべての読んだ本がリストされています。ビルゲイツさんやフェイスブックのザッカーバーグさんもだいたい30-50冊ぐらい読んでいるようです。年間100-200冊ぐらい読む方もたくさんいますが、仕事や付き合いがある中で隙間時間を使ってこなせる分量は50冊程度(週1冊程度)が私には妥当だろうと思います。

「読書する人だけがたどり着ける場所」(齋藤孝 著)という本があります。2時間で読み切りましたが、読書が持つ意味を改めて考えるには刺激がありました。その中で読書の深みについてこんな一節があります。

SNSはコミュニケーションのツールとしてとても優れていますが、情報摂取の観点から言うとあまり役に立ちません。友達とのコミュニケーションからは基本的に『新情報』は出てこないもの。お互いに知っている物事、身近な物事について情報交換をしていることが多く、新情報へのきっかけはあるとしても深く知ることは難しいでしょう。

カナダにはアダルト ラーニングという仕組みがあり、近所の公民館で様々なクラス(運動から技能、勉学まで)が日中、夜間を通じてリーズナブルな金額で提供されています。日本では学校を卒業したら勉強をすることを忘れてしまった方が主流でしょう。会社勤めで疲れて帰ってくるか、帰りに友人や同僚と食事したりしても勉強を積極的に取り込んでいる人は少ないと思います。

江戸時代、寺子屋で勉強することで当時、日本人は平民まで含めた知識レベルにおいて世界で最も優秀とも言われました。それは誰でも勉強するという姿勢を持ち続けたからです。現代社会において今でも我々は優秀か、と問われれば個人的には優秀な人もたくさんいるが、ドロップアウトした人も相当多くなったと思います。

以前、私は当地のNPOを通じて私塾をやっていることをお話ししたと思います。今年のテーマは「我々は社会環境へのリーダーとなれるのか」です。来週、今年2度目の講座が開かれますが、日本のAIの実務専門家の方を2名お招きし、参加者17名で議論を戦わせる予定です。議論するには自分が無防備ではだめです。しっかり予習し、専門家と討論できるレベルまで自分を引き上げないと対話に参加しにくくなります。そしてこの塾は全員が均等に発言する機会を設けていて、そこで初めて刺激が生まれる仕組みがあるのです。

外国にいて集団で議論や会議をしているとき、発言しない人は天才ですべてをお見通しか、内容をほとんど掌握できていない勉強不足の方のどちらか、と言われます。私がこちらに来てより勉強するようになったのはローカルの社会である程度対話ができる素養は持ちたいと思っているからです。

読書はその中では自分の隙間時間でやりくりできる勉強方法の一つです。深堀しやすいし気に入ったテーマがあればその関連本を数冊読むことで素晴らしい知識を身に着けることができます。上述の齋藤氏の著書に1テーマ5冊読めばAランクとあります。私は司馬遼太郎を少しずつ読んで早4年。まだ30数冊ぐらいにしか達していませんが、氏の切り口に入り込みやすくなり、すいすい読めます。

SNSと検索で何でもすぐにわかる時代だからこその読書の価値はあると思います。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2019年5月5日の記事より転載させていただきました。