盲目の犬を助ける小犬の「話」

いかに素晴らしい文を書いたとしても、1枚の写真に負けてしまうことがある。メディアの世界でもそうだろう。今回紹介する写真には、「今年最高の感動的な写真」という賞があれば送りたい、と当方は勝手に考えている。

▲盲目の犬を世話する小犬マベリック(オーストリア日刊紙クローネンから)

▲盲目の犬を世話する小犬マベリック(オーストリア日刊紙クローネンから)

初めて見た瞬間、感動して何も言えなかった。撮影したカメラマンに拍手を送りたい。それだけではない。その被写体の動物の仕草は名俳優だって出来ないだろうと思うほど、素晴らしく自然体なのだ。

あまりにも素晴らしい写真だったので新聞から切り抜いて部屋の戸に張り付けている。気分が塞ぐ時や嫌なことがあった時、その写真を見て元気を取り戻すためだ。この世界にもこんな素晴らしい存在がいる、というだけで希望が出てくるからだ。申し訳ないが、ここでは「復活したイエス」の話ではなく、「犬」の話だ。

前口上はこれまでにして、話はその写真の主人公の犬に入る。

オーストリア日刊紙クローネン日曜版に掲載されていた盲目の犬(11歳、ゴールデンレットリバー、チャーリー)とそれをお世話する小犬(マベリック)の日々の姿を撮ったものだ。舞台は米国のノースカロライナ州だ。

目が見えないということはやはり苦痛だ。人生の喜びの多くは視覚からくるからだ。美しい山、川、夕日、香りを放つ花など、全ては目を通じてキャッチする。その目が見えないということは考えられないほどの十字架だろう。人間だけではない、犬も同じだ。チャーリーは緑内障で両目の視力を失った。それ以後、元気を失い、生きる力もなくなったように見えたという。当然だろう。その姿を見た飼い主がチャーリーの遊び相手としてベビーのマベリックを連れてきたのだ。

元気を失いかけていたチャーリーはマベリックが来ると、次第に生きる力を取り戻し、一緒に散歩にも出かけるようになった。マベリックは盲目のチャーリーの紐を口にくわえ、散歩する。彼は眠ると傍で一緒に眠る。そのような姿をカメラマンが撮ったのだ。

チャーリーが自分より小さなマベリックに連れられている姿を見るたびに,「良かったね」と言いたくなる。一方、マベリックにはただただ頭が下がる。「どうして君はそんなことができるのか」と聞いてみたくなる。

マベリックは「為に生きる」ことを実践している。自慢もせず、奢ることもない。それこそ為に生きる極地を行く姿だ。オーストラリアの哲学者ピーター・シンガー氏は「他の為に生きる」のは自分の為になるからだ、という`効率的利他主義`を提唱している。為に生きるのは決して英雄的な行為ではなく、自分の為になるからだというわけだ。

人は為に生きるためには教育と自己規制、そして時には宗教が必要だが、マベリックはいつそれらを学んできたのだろうか。当方は心的外傷後障害(PTSD)に悩んでいたゴールデンレットリバーの雄犬を知っている。ボスニア紛争から拾われてウィーンに運ばれた犬も知っている。人間の世界でもそうだが、犬の世界でも生まれてから現在まで幸せ一杯だったという犬は少ないだろう。何らかの痛み、悲しみ、時には恨み、つらみをもって生きている(「『心的外傷後障害』に悩む犬と猫の話」2018年12月10日参考)。

その痛みが少しづつ緩和され、本然の姿を取り戻すプロセスを見るほど美しい瞬間はない。ひょっとしたら、マベリックはそのプロセスを肌で感じるから「為に生きる」ための力を得ているのだろうか。

生きるためにはパワーが必要だ。そのエネルギーは自己発電ではなく、他との関係から得る、という宇宙の原則から考えると、マベリックはきっとチャーリーから「為に生きる力」を得ているはずだ。人間の世界では、それを「愛」と呼び、動物の世界では「本能」と呼んでいるわけだ。

ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年5月13日の記事に一部加筆。