国後での丸山発言、ロシアは批判する資格なし!

2019年05月15日 06:01

5月11日に丸山穂高衆院議員が国後島をビザなし訪問した際の丸山議員の訪問団団長とのやり取りが団員に批判され、撤回謝罪する事態に至った。大したことのない発言と筆者は思い、左の方々の批判だけなら黙殺するつもりだった。が、ロシアの批判には「お前が言うな!」といわずにはいられない。

丸山氏ツイッターより:編集部

HBCニュースに掲載されたそのやり取りはこうだ。

丸山:「団長は戦争でこの島を取り返すことには賛成ですか?反対ですか?」
団長:「戦争で?」
丸山:「ロシアが混乱している時に取り返すのはOKですか?」
団長:「戦争なんて言葉は使いたくないです。使いたくない」
丸山:「はい。でも取り返せないですよ」
団長:「戦争はするべきではない」
丸山:「戦争しないとどうしようもなくないですか?」
団長:「戦争は必要ないです」

同議員はかつて飲酒で問題を起こした時に断酒を誓っていたらしい。だのに訪問先の席での酒を飲んでの問答だったことが、発言そのものも然ることながら、問題視された向きもある。軽率の誹りは免れないが、だからといって議員辞職するほどの問題があるとは思われない。

ところが共同通信が13日、ロシア上院のコサチョフ国際問題委員長が、丸山発言は「日ロ関係の流れの中で最もひどい(発言だ)」、「そのような挑発的な発言ができるのは、存在する問題の解決を望まない人々だ」と批判したことを報じた。この発言のどこが挑発的か。ちょっとした意趣返しに過ぎまい。

つまり丸山発言は、1月14日の日露外相会談後にラブロフ外相が「クリル諸島南部の全島に対するロシアの主権を含め、日本が第二次世界大戦の結果全てを、議論の余地なく認める」のならロシア政府は平和条約締結に取り組む用意がある、と述べたことを念頭に置いたものということだ。

ロシアのコサチョフ国際問題委員長(左)とラブロフ外相(Wikipediaより:編集部)

ラブロフ外相が「第二次世界大戦」を持ち出すなら、日本にもいわねばならないことが五万とある。ロシアには丸山発言を批判する資格などないのだ。以下にそのうち一万を書く。なお、第二次大戦以前の千島列島の位置付けについては2月18日の投稿「台湾と千島、その法的地位」や4月21日の投稿「国後・択捉も千島列島ではなかった⁈ これで四島戻ってくるか?」に譲り、本稿ではその後のことに焦点を当てる。

ソ連の汚点は何といっても期限が1946年4月の日ソ中立条約を破った対日参戦だ。『考証日ソ中立条約』(岩波書店)で著者のB.スラヴィンスキーは、それゆえソ連は東京裁判以降もその汚点を正当化するべく様々プロパガンダを行ったとし、近年でも数多くの「極度に偏っていて悪意に満ちた反日本的な書物が追加された」と述べる。以下の記述は概ね同書に拠る。

これらを書いたソ連の識者らは「マルクス・レーニン主義理論と階級本位のアプローチを研究の指針にしていたため、歴史的事件の事実関係や政府によって承認された国家政策を分析しようとせず、自分たちにとって必要な回答、そして前もって決められている回答に根拠を与えるため、敵方に存在する多くの意見の中から自分に都合のいい意見を選び出した」。

その一例だが、モロトフソ連外相の専属通訳だったワレンチン・ベレシコフは、1940年9月27日に締結された日独伊三国同盟に関して、モロトフが1940年11月25日にモスクワ駐在独大使を招いて次のように述べたことを証言している。

ソビエト政府は11月13日になされたリッッベントロップ外相の提案*を注意深く検討し、一定の条件の下で、政治的、経済的な協力に関する「四国条約」の締結に肯定的な対応をする用意がある。

(*9月27日締結した三国同盟にソ連を加える提案)

ところがソ連の「外交史」(1975年)は「三国条約の締結は侵略国の軍事同盟を最終的に形成した正式な手続きであった。反ソビエト傾向を周到に覆い隠しているが、この条約は世界の平和を愛する人々、そして何よりソビエト連邦に敵対していた」と書いている。

日ソ中立条約が、1940年5月のダンケルクでのドイツの勝利を、日本が西欧列強のアジア植民地への南進の好機(バスに乗り遅れるな)と捉え、米英仏蘭との戦いに備えてあらかじめソ連の脅威に対処しておこうとの思惑に駆られた結果の産物であったのはその通りだ。

そこで日本はソ連と1940年6月にノモンハン事件の後始末の国境策定をし、7月には東郷駐ソ大使がモロトフ外相に日ソ間の平和友好維持と領土保全の相互尊重を望む旨を表明した。さらに東郷は8月5日に近衛新内閣が日ソ間の中立協定締結を望んでいると告げた。これに対しモロトフは8月14日、この日本提案に対する肯定的な回答文書を東郷に手渡した。

だが日本はモロトフ文書への回答を直ぐにはしなかった。9月27日に政治、軍事、経済の同盟に関する10年間有効の三国間条約を結んだからだ。そして10月30日、東郷から代わった建川新大使はモロトフと会談し、以前提案した中立条約に替えて独ソ不可侵条約のようなものを望んでいる旨を、条約案を示しつつ告げた。

モロトフから中立条約と不可侵条約の違いを問われた建川は、中立条約では不可侵の問題が明確に表現されないので不十分だから、と述べた。この後、モロトフは先述の通り11月13日にリッッベントロップ独外相から「四国条約」の提案を受け、11月25日にはモスクワ駐在独大使を呼んでその提案に対する肯定的な見解を伝えている。

その一週間前の11月18日にモロトフは建川を招き、独外相との会談内容を伝えつつ日ソの関係調整の要請を歓迎すると述べた。但し、ポーツマス条約でロシアが失った領土(南樺太と千島列島)の回復を伴わないなら、ソ連の世論は好意的にそれを迎えないであろうと主張し、中立条約の案を示した。

結局、日本側がソ連案を丸呑みして1941年4月13日に締結された中立条約は、両国の領土保全(第一条)、両国が関わる紛争への中立(第二条)、有効期限5年、1年前に廃棄通告ない場合は5年間自動延長(第三条)、速やかな批准(第四条)のしごく簡単なものだった。

実はソ連が中立条約に拘ったのには訳があった。それは1937821日付で中国との間に次のような不可侵条約と極秘口上書が交わされていたからだ。(以下太字は筆者)

第二条(他は省略)

もし条約締結国の一方が、一または二以上の第三国から攻撃を受けた場合、条約締結国の他方は紛争が続いている全期間、その第三国又は第三国群に如何なる直接又は間接の援助も与えず、かつ攻撃した国又は国群によって攻撃を受けた側に不利益になるように利用される可能性のある如何なる行動又は協定も差し控える義務を負う。

極秘口上書

口頭声明は極秘であり、公式にも断じて公開無用である。

本日、不可侵条約の締結に当たり、ソビエト社会主義共和国連邦の全権代表は、自国政府の名において、中華民国と日本が正常な関係を公式に回復するまでの間は、ソビエト社会主義共和国連邦は日本と如何なる不可侵条約も締結しないことを声明する。

日本はまんまと騙された訳だが、その4年後の1945年4月5日、すなわち廃棄通告の期限である1年前に、モロトフは佐藤尚武駐ソ大使を呼び4月13日をもって条約の廃棄する希望を声明した。ソ連の同盟国である米英と戦争している日本との中立条約は意味を失ったというのが主な理由だった。

その後、ソ連が中立条約の期限を半年余し、それもポツダム宣言を受諾した8月15日を過ぎて突如満洲と千島に対して侵攻し、千島に至っては9月2日の降伏文書調印後の9月5日まで占領行為を継続したこと、そしてその宣戦布告が日米講和の仲介を依頼しに行った佐藤大使への返事代わりに行われたことは、丸山議員発言への批判に対し「お前が言うな!」というに十分過ぎる背信行為だ。

高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。

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