バブルの生成と崩壊を回顧する(特別寄稿)

2019年05月24日 16:01

小川榮太郞「平成記」は日本を繁栄の絶頂から30年ものあいだほとんど成長しないという奈落の底に突き落とした時代について詳細に世相や論壇、文化の動きまでよく観察した労作だが、経済政策についてはだいぶ意見が違う。

小川榮太郞「平成記」について

通産省時代に「朝生」に出演した筆者(朝まで生テレビより:編集部)

当時、私は「東京一極集中」への反対論と「首都機能移転」を打ち出して、けっこう注目されていた。『「東京集中」が日本を滅ぼす』(講談社)とか『遷都~夢から政策課題へ』(中公新書)は結構、話題になったし、「朝から生テレビ」などで発言機会を得た頃でもある。

その時代に生きた立場からいうと、小川氏らがいうバブルの終焉とその後の経済運営の失敗についての論議には違和感をもつ。ただし、本稿は小川氏の議論に対する直接の反論でなく、触発されての頭の整理である。

バブルの「戦犯」政治家はこの2人

バブルの生成と崩壊については、最近、バブルを批判するよりもバブル崩壊を批判する、むしろバブルを放置しておけば良かったといわんばかりの議論が多く見られる。

しかし、それはおかしい。無茶なバブルはいずれ崩壊したのであって、悪いのは崩壊が遅すぎたことと、その後の対策のまずさである。

あの当時、東京不動産価格が上がってだいたい中古マンションの価格が家賃の800か月分にもなった。家賃10万なら売買価格が8000万円だ。世界的な標準が100か月分であるが、バブル前には150か月分。不動産に対する課税が甘いので、他の資産に比べて安全有利だから多めだったのである。

収益還元法による適正な資産価格が緻密にあるわけではないが、長期にわたって著しく乖離すればどこかで破綻するのは当然だ。それが解消するのは、不動産の下落か家賃の高騰によるしかないが、日本の経済成長力が弱かったので、家賃の高騰は「それほどには」望めなかった。とすれば、不動産価格の値下がりしかない。あるいは極端なインフレのなかでの解消である。

中曽根首相(当時、官邸サイトより)

バブルの引き金は、中曽根首相が地方分散策を放棄して東京一極集中を容認するような四全総試案を出して、かつ、国土庁が東京のオフィスが足らないとかいったからである。東京一極集中には私たちが猛反対したが、金余りだった金融界は融資先ができたと喜び、不動産業界は住友不動産を先頭に地上げに走った。

このときに、一極集中政策の否定と地価抑制策がとられたら、少なくとも極端なことにはならなかったのである。ところが、一極集中の否定は中途半端だったし、大蔵省は不動産価格の高騰が税収の増加に結びつくとか、国有財産の売却で国庫が潤うとかいって放置した。

東京都の鈴木俊一知事は不動産の暴騰は否定しつつも、人員が足りないとかいって不動産暴騰への対策をさぼった。私はバブル生成の最悪の戦犯は誰かと言われれば、中曽根首相と鈴木知事を挙げる。

また、金融界やそれにつらなるエコノミストは、土地本位制のもとでは、いったん上がった不動産価格を下げるのは危険だからやるべきでないと言い張った。

それに対して、私などが言っていたのは、長期間にわたって維持することが不可能な不動産価格をゆっくり下げればいいとかいう議論は、金融機関などプロが善良な庶民や愚かな企業経営者に不良物件をバブル価格でつかませて損失をつけかえて逃げ出すことにほかならないということだ。

たしかにバブル崩壊は傷を与えるだろうが、バブル価格の期間と範囲が小さければ高値づかみをした企業や個人は少ないのだからダメージが少ない。ところが、長期間に広範になればその範囲が拡大するからバブル崩壊は早いほどダメージは少なく処理可能といっていた。

三菱地所が買収して「バブルの象徴」と言われたNYのロックフェラーセンタービル(Wikipedia)

ところが、政府は東京の地価高騰の沈静化だけを主張した。つまり、高値止まりと東京都心だけがバブル価格という状態の維持であった。そんな不合理が状況は維持不可能だから、もたもたしているうちに、地価高騰は地方都市の中心部と東京郊外に波及して、バブル状態は広範かつ長期化した。

しかし、にっちもさっちもいかなくなって、ようやく、90年になっていわゆる総量規制が導入され、バブルは集束に向かった。

バブルの対応も処理も誤った日本、日本の轍を踏まなかった中国

そのときに、私が主張していたのは、金融機関の不良債権の処理を急ぐことと、経済成長をはかるための産業育成策、効率のよいインフラ整備策だった。

ところが、不良債権処理は宮沢首相が比較的正しい認識を持っていたものの実現は1995年末の村山内閣の決定まで待たねばならなかったし、全般的な処理は小泉内閣をまたねばならかなった。

なぜ長引いたかといえば、銀行が給料を減らす、厚生施設なども含めて不要資産を処分する、経営陣が責任をとるという、「膿を出す」ことを拒否し、それでは、とうてい世論が納得しなかったのである。

リーマンショックのあとに世界で行われた不良債権処理のあとなら相場があったが、当時はおとしどころの相場のコンセンサスが成立しがたかったのも事実である。どうしたら、バブル崩壊時に速やかな不良債権処理をどうしたらできたかということは、なかなか難しいことだが、ちょうど政治の混乱期であり、強力なリーダーシップは望むべくもなかった。 私は1990年夏から93年はヨーロッパにいたし、最近のようにネット社会ではなかったので、議論にあまり加われなかったが、帰国後には中国担当課長になった。

そのころ、中国では朱鎔基副首相が経済運営の主導権をとっていて、朱鎔基氏の話をなんども聞く機会はあった。その下の経済政策の責任者たちと長い議論もしたが、若い頃から通産省とも付き合いがあった人だし、日本のバブル生成の経緯をよく勉強し、その轍を踏まえて、徹底的なバブルの芽を潰して押さえ込みをして大成功した。我々もそうするようにアドバイスしたし、それが中国の人々の幸福に少しでも役に立ったとすればうれしいことだ。

産業政策の強化や、公共事業の質にも細かく目を配っていた。私がこうすべきだと思った経済政策がそこにあった。

思えば、日中の運命の分かれ目は1978~80年にあった。1978年に来日した鄧小平副首相は大平自民党幹事長からアドバイスを受けて堅実に配慮した改革開放政策を開始し、それを朱鎔基が深化させた。

日本では1978年に首相となった大平正芳は、これも消費税の導入も含めて正しい経済政策を導入しようとしたが、国民はこれに抵抗し大平は殉職した。そして、後継の鈴木善幸と中曽根康弘は、末梢的な先延ばし策でしかない行政改革路線とバブル路線をとって墓穴を掘り、その後も朱鎔基のような優れた指導者は現れなかった。

これが、日本が地獄へ、中国が天国へ向かった平成という時代の真相である。

令和になっても嘆かわしい日本の経済政策の議論

経済財政諮問会議で発言する安倍首相(官邸サイト:編集部)

私は金融や財政の量的な調整に過度に頼って問題を解決しようというのは、危険だし効果も一時的なものに留まると思う。現状のアベノミクスも第三の矢であるはずの競争力強化がお粗末に過ぎる。

競争力の高い人材を生み出す教育は最良の産業政策だ。IT技術者が世界でもっとも不足しているといいながら、ダイナミックに教育政策が反応せず、あいかわらず医学部に優秀な人材が集中しているようでは、この国に未来があるはずがない。

公共投資についても、なんでもやればいいという発想はおかしい。国土強靱化も内容について語らなさすぎる。インフラ整備は将来のベネフィットがコストを上回るならいくらしてもいいが、下回るものは社会的負債に過ぎないのではないか。

過疎地の小学校をそのまま耐震工事をするより集約化して、そのかわりしっかりした最新式の学校にしてはどうか。首都機能で私たちが主張したのは、リニア沿線にIT時代にふさわしい新都市を建設することだった。

少子化対策はマクロ経済政策と普通はいわないが、私はもっとも効果的なマクロ経済対策だと思う。

暗くて散々な時代だった平成が終わって令和になっても、日本人はまじめに経済成長や産業競争力の強化、教育の革新、将来の財産となるインフラの整備といったことに本気で取り組んでいるとはいえず、金融と量的な財政政策ばかり議論している。生活習慣病の患者が食事療法や適度な運動による体力強化をせずに、薬でごまかすことばかり考えているようなものだ。嘆かわしい限りである。

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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